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差異で資本主義は駆動する [NEWS]

アフリカ開発会議とやらが終わったようだ。

オレはつねづね言っているように経済オンチなのだが、しかし、中国だベトナムだ、そして今度はアフリカだ、といった具合に、先進諸国の資本が次々にそれまで「後進国」だった地域に入っていって、工場を建てたり商品を売り込んだりして経済を回しているのをみると、つまり「差異」こそが資本主義の原動力なのだと改めて思うのだった。

つまり、先進諸国から比べると安~い人件費で働いてくれる人がいっぱいいる地域、先進諸国ではだいたい欲しい人に行き渡ってしまったクルマやら家電製品がまだまだ求められている地域、そういう格差があるからこそ経済活動が駆動していく。

ビンボーで購買力もないと見限られていた地域が、先進国でモノが売れなくなってみれば、逆に無尽蔵の可能性に満ちた場所にみえてくる。そういう仕組みなのだとオレは自分勝手に理解している。

だが、中国が一気に金持ちになってしまったように、「未開の秘境」と先進国の差異は急速に消費されてしまうのである。切り札のアフリカまで召還されてしまって、さて、そのあとはどうするのだろう? グローバリズムとやらでのっぺらぼうになってしまった地球で資本主義はどうなってしまうのだろう? やっぱり意味のない蕩尽=戦争でもおっぱじめるしかないのだろうか? 年来の疑問であるのだが。


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「クールジャパン」という大いなる勘違い [NEWS]

「クール・ジャパン官民有識者会議」みたいなのができて、秋元康あたり(笑)が「クールな日本を売り込もうッ!」みたいなギロンをしているのはよく知られているところだ。ネットをみてると、国が500億円出して官民共同の新会社「クールジャパン推進機構」(仮称)を設立する構想、なんてのもあるらしい。

で、何かこういう動きをみていて思うのだが、こういう仕掛けはいったいどうなのか。

つまり、なんつーかお役人たちの頭ン中では「日本のアニメとかテレビ・映画・ショービズのコンテンツビジネスでガッポガッポ」みたいな目算があるような気がするンだが、そういうのはあくまでも「小商い」みたいなもの。外貨を稼げるとしてもせいぜい年間ウン百億円単位ではないのかナ? 経済は疎いのでよくわからんけど(笑)。

こういう文化絡みの国家戦略というのは確かにあっていいのだが、「商売」として考えるのは違うと思うのだ。

よく言われることだが、戦後の日本では、アメリカのテレビシリーズ「パパは何でも知っている」みたいなのが流れて、「あぁアメリカって豊かだなースゲエなー」とかいって日本人が恐れ入ってしまったのだった。おそらく金銭的なことでいえば、あの番組作った人間が大もうけできたわけでもなかろう。


つまり、カネ勘定を超えて、外国の連中に「一目置かせる」とこにこういう文化戦略のキモがあるわけで、そりゃハリウッドレベルになるとショーバイでも通用するんだろうが、「クールジャパン」にそこまでのポテンシャルはないだろうよ。

アラブの子どもたちが「キャプテン翼っていいよなー、あれって日本が作ったんだってなー」とか話し合う、それで十分ではないのか。

お役人はそういうところに金づるを見出そうという発想をやめてほしい。やることがあるとすれば、むしろ安月給で疲弊しきっている末端のアニメーターたちを何とかしてやること、ではないか。



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聖書の好きなところ [あとらんだむ]

オレは、まぁ若干破戒に傾斜しているとはいえ一応仏教徒だという自覚はあって、「一切皆空」とかいわれると「まぁそうだよなー」と思うような人間であるんだが、たまに何となくパラパラと聖書(新約デス)をめくったりするようなことも、ま、ないではないのだった。

もっとも、その読みは基本的に懐疑的である。「いくらなんでも刑死したオッサンが墓場から甦るわけないジャン。だいたい甦ったあとの事績がいろいろ書いてないのが不自然だよなー。この甦ったと称する男が本当にイエスと同一人物だと言い張るんだったらサ、いろいろ問い詰めてリアルなトコ証言してもらわにゃ納得いかんよなー。自らを捨てて人間の罪を背負ってくださった、みたいなとこまで言うからにゃあ、もっと検証せにゃいかんでしょ。それが全然ないじゃん」みたいな、つまり異教徒丸出しのボートクすれすれの読み方しかできないのである。

いや、しかし、よくわからん文句が並んでいる聖書のなかで、ときおりキラリと光るフレーズを発見することもある。たとえば次のようなところ。


イエスはそこを去って故郷にお帰りになったが、 弟子たちも従った。安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた。多くの人々はそれを聞いて、 驚いて言った。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような 奇跡はいったい何か。この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの 兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」このように、人々はイエスにつまずいた。 イエスは、「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」と言われた。 そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことが おできにならなかった。そして、人々の不信仰に驚かれた。それから、 イエスは付近の村を巡り歩いてお教えになった。(マルコ6:1-6:6)



イエスはこれらのたとえを語り終えると、そこを去り、故郷にお帰りになった。会堂で教えておられると、人々は驚いて言った。「この人は、このような知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう。この人は大工の息子ではないか。母親はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。姉妹たちは皆、我々と一緒に住んでいるではないか。この人はこんなことをすべて、いったいどこから得たのだろう。」このように、人々はイエスにつまずいた。イエスは、「預言者が敬われないのは、その故郷、家族の間だけである」と言い、人々が不信仰だったので、そこではあまり奇跡をなさらなかった。(マタイ13:53-13:54)



つまり、イエスが故郷に戻ってきたところ、その辺のオヤジが「おや、アイツ、大工のヨセフんとこのガキじゃね? なに気取ってんだヨ」的なツッコミを入れたというのである。するってーと、流石のイエスもたじたじである。「いやあ、預言者っつってもネ、故郷とか家族のいるとこじゃフツーの人になっちまうんだよねー(ポリポリ」とかいって、実際に「奇跡」も起こせなかった、という話なのである。

このあたり、実に真理をついているッ! つまり、なんか教団を立ち上げることに成功したカリスマであってもね、「あのさー、偉そうなこといってっけどさー、アイツ角のたばこ屋のせがれの定坊でしょ? オレ、アイツのおしめ替えたことあるんだよねー(笑)」的な、もう絶対的に彼の弱いところを握った人間に対しては、もうカリスマは通用しないのである。いくら天下のイエスであっても、はなから「角の大工ンチの小せがれ」だという風に見る人間に対しては全く無力なのでアル。

言ってみりゃ、聖書はここで宗教の幻想性というものをはからずも露呈させてしまっているのである。信じ込ませりゃ相当なことはできる。でも、しょっぱなでツカミそこなったら全然ダメ。

そしてこういう聖書のワキの甘さが、オレはとてもスキである。もちろんちゃんと勉強した聖書学者のセンセーは、この辺も違う解釈をされるんであろーが、ナニ、読み方は勝手である。そして、そういう読み方ができるから聖書いいよネという人間の出現をも肯定しているからむしろ聖書はエライということもできるのだね。
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カウンターをつけてみた [身辺雑記]

ということで今頃になってカウンターをつけてみる。

counter.jpg
いや、別にしょせん便所の落書き、チラ裏ブログであることは否定しないがネ、まぁ厄介なことにこんなオレでもちったぁ自尊心みたいなものがないではない、少~しずつでもカウンターが回っていけば、こんなもんでも続けてる甲斐があるんじゃねーか。みたいな。ハイわかってますよ思い上がりデス(笑)。
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ネットという漁網 [身辺雑記]

しかしよくよく考えると、ネットというものが当たり前の時代になっていろいろ変わったことというのは様々あって、たとえば「ネットからでてきた論客」などというのは、活字メディアが情報のコンテナを独占していた時代では考えられないことであった。具体的にいえば内田樹氏などというヒトは世が世であれば(笑)レヴィナスかなんか研究している偏屈な学者サンという立ち位置で一生を終わっていても不思議ではないヒトだったワケで、もちろん内田氏に対してはいろいろ批判をするヒトもいるわけだがオレ的にはとても貴重な人材であると思っていて、考えてみれば人材発掘ツールとしてのウェブというのはスゲェのである。

で、そういう文脈でいうと、「村上春樹というのは過剰に評価されすぎじゃネ」という、つまりは「王様は裸だ」的発言をアマゾンレビューにアップして一躍脚光を浴びたドリーさん(ちなみにこの埋没地蔵の館というのが彼のホームグラウンドらしい)というヒトもオレに言わせればスゲェ逸材である。

願わくは、そういう世に埋もれた人々に光あれ。というのが、オレのせめてもの願いである。「新潮45」あたりでこのドリーさんをコラムニストに仕立て上げてやっていただけないだろうか(笑)。オレは読みたいゾ。

【5/25追記】
などと書いていたら、このドリーさん、件のブログをみたらライターの仕事が入った?みたいであるぞ。がんばれがんばれ。
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此処より下に家を建てるな [身辺雑記]

わけあって、本州最東端の岬、岩手の魹ヶ崎(とどがさき、と読む)に行ったことがある。

途中までバスでいって1時間ぐらい歩いていったのだが、バスの終点、姉吉というキャンプ場の手前に昭和初期に建てられた石碑があり、「此処より下に家を建てるな」と津波への被害を警告している。

【注】 いやホントのことをいうと石碑はキャンプ場手前の道端にあるので、オレはバスでその脇を通っただけの話である。その姉吉キャンプ場に立っていた「ココ津波到達点」みたいな看板のことは憶えてるが。

閑話休題。3.11以降、震災のあった土地に興味本位で足を踏み入れるのは如何なものかという思いもあり、東北にはずっと行っていないのだが、ふとした拍子にその石碑の話を思い出すことがある。

人間が生きていくということは、つまりああいう石碑を建てることである、と思ったりする。

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(これは借り物の写真である)
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Euro Truck Simulator 2 [身辺雑記]

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Euro Truck Simulator 2 というPCゲームをやっておる。ハンコンも使える。トラックを運転して、ヨーロッパ各地で貨物運搬をしてカネを稼ぐというゲーム。ただそれだけなのだが、ドライブのリアル感というものをけっこううまく醸し出しており、悪くない。
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橋下徹のフーゾク発言 [NEWS]

橋下徹がこういうことを言ったそうだ(意訳アリ)。

「軍人というのは性的衝動をバクハツさせてやらんと暴発する人たちなのさ。で、日本の従軍慰安婦の制度っつーのは、軍が関与して運営したり拉致してきた女性を働かせたという証拠はないワケだから、つまりフツーの売春システムだったわけでしょ? そんなもんだったら世界中の軍隊周りでフツーに存在してきたんだよねー」

「そういうわけなので、在日米軍の皆さんも犯罪を犯すまえにフーゾクにいって発散してください」

前段は、まぁこの辺に詳しい秦郁彦あたりに言わせればほぼ正しいことを言っているようだ。しかし、日本の従軍慰安婦というのは英語だとwartime sex slaveとか訳されて流布しているよーなので、グローバルスタンダード的には「よくよく考えりゃオレたちの国の軍隊にもそういうのあったんじゃねーか?」的に胸に手を当てる輩などいる筈もなく、「Oh、日本の政治家ガ、sex slaveハ必要ダト言ってるYO!」という風に理解されるのであろう。

政治家というのはよく言われるように「結果責任」の世界に生きているわけだから、こういうリアクションが当然想定される以上、じゃあどうやってケツを拭くか、まで絵を描いた上で発言せねばならんだろう。しかしオレなぞにはこういう事態をどう収めるのか、全然わからんぞ。たぶん橋下氏もそんな先まで考えて発言していないのではないか。

で、後段の「米軍のみなさんもフーゾクに言ってネ」発言であるが、こういう発言というのは、なんか会社のイイ年をした上司が若手社員に向かっていうような、「チミも最近たまってるンじゃないかネ、どうだ、ソープにでも行って抜いてきたら」的な発言をホーフツさせるものがあり、つまり極めて下品である。

確かにそういう世界に救われている人間がいることも事実であろう。西村賢太が小説で描くような「ビンボーの極にありながらソープ貯金だけは欠かさず続けているような男」というのも確かに実在するだろうし、そういう人間の哀しいサガのようなものにオレはとても共感する。

であるけれども、選挙で選ばれたエライ政治家の方が、そういうぶっちゃけトークで「一本抜いてきたら」的発言をするのは流石に品がなさ過ぎるのではないか。ホンネはどうあれ、「フーゾクって助かるよね」なんぞと言っちゃいけないんではないか。

なんかその辺、日本にはどんどんオトナがいなくなってるんだなーという感慨も抱く。確かに「王様は裸だ」とかいってオトナの世界の欺瞞を衝くのは気分が良いのかもしれないが、そんなこたぁとうにわかってるンだけどとりあえず今この世界を崩壊させないように頑張っているオトナというのも必要といえば必要なのだから。


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富士山が世界遺産になるといってはしゃぐ人 [天声人語]

富士山が世界文化遺産になるようで、けさの天声人語も何やら書いている。最後の一節。

▼それぞれの思いを背負って、年に約30万という人が登る山でもある。さすがの霊峰も重いことだろう。いたわり、守る決意を新たにしたいものだ。届いた朗報を喜びながら。


世の中のおめでたいムードに乗っかって書き散らした、まぁ毒にも薬にもならないコラムのようにも思えるワケだが、よくよく考えるととても変な文章である。

「さすがの霊峰も重いことだろう」って、何か。30万人も登ってくるから「重いよ重いよ」といって苦しんでるのだろうか? あるいは「オレもいよいよ世界遺産かー。責任重大だッ!」とかいって、責任の重さを痛感しているという意味であろーか? ま、いずれにせよ勝手に富士山を擬人化して、自分の勝手な思い入れを投影しているワケで、だからこそ意味不明な文章になってしまうのである。

ま、それはともかく、いささか疑問なのは「いたわり、守る決意を新たにしたいものだ」とかいって、一介の新聞記者が富士山の守護者きどりで何かエラソーなことを言っているくだりである。

もちろん、富士山登山で殺到した連中がクソとか垂れ流しては「霊峰富士」を汚している、みたいな話はよくきくので、オマイラもうちょっと考えろやみたいな主張はありうるとは思うンだが、たかが人間が富士山を「いたわってあげましょう」などと言い出すのは思い上がりもいいところだ。

いいですか、富士山は活火山ですよ! とりわけ3.11以降は、富士山だっていつ爆発したっておかしくない、という議論が持ち上がっておる。そしていったん噴火して火山灰が大量に噴き出したら、中部~首都圏の広範な地域で経済活動がマヒすることもありうるという。

そう、本当は富士山はコワイのでアル。たしかに美しい山。だが、富士山は別に生物ではないので、別に人間どもがたたえようとけなそうと、いったん活動が始まれば容赦なく溶岩や火山灰を噴出させて、われわれを苦難の底に突き落とすのである。

「いたわり、守る決意を新たにしたいものだ。届いた朗報を喜びながら」とかノンキなことを言ってて良いのだろうかコノ人は、想像力というものが全然ないのだろうかと思うのである。まぁ大噴火のあとは「おねがいです富士山サマ、怒りをおさめてください」とか書くのだろうが、ま、こんなんでクオリティ・ペーパーを気取れるのであるから気楽な商売ではある。


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この天声人語は許す [天声人語]

ちと古い話ではあるが、3月6日の「天声人語」がえらく評判が悪いらしい。こんなのだ。

▼行きつくところと言うべきか、兵庫県小野市が議会に条例案を提出した。(生活保護の)受給者がパチンコなどで浪費しているのを見つけた市民に通報を義務づけるのだという。耳を疑ったがエープリルフールにはまだ間がある▼筆者と違う意見もあろう。だが、そもそも誰が受給者なのか一般市民には分からない。効果は疑わしいうえ、小野市だけでなく全国で色眼鏡が濃くなりかねない▼生活保護の切り下げについて、受給する女性が声欄に寄せていた。「受給者は楽しみを持ってはいけないのでしょうか。貧しい気持ちを持ったまま、暗く生きていかねばならないのでしょうか」。身に染む声ほど小さく震える。
 ※なお、文中の丸カッコは引用者による


日ごろ天声人語を批判しているオレだが、しかし、今回に限っては「いやこれは悪くない」と敢えて弁護してやろう。

いや、オレも生活保護うけてるのにパチンコに行くというのは、ちと問題ありだと思う。いやむしろ、そういうことをする人間は忌憚なくいえば「クズ」に近い。でもそういう人を責めてはいけない、とオレは思う。

親鸞ではないが、人間なんていうのはどうしたって聖人君子のようには生きていけない存在なのだ。生活保護うけてカツカツの生活をしていても、「そうだパチンコで一発フィーバー当てりゃあ今晩は寿司のひとつも食えるんじゃねーか、よーし勝負だ!」とかいって、ついついパチンコ屋にでかけてしまう。で、もちろんパチンコですっからかんになって家に帰ってきて、「あぁオレってバカだなあ」と自己嫌悪に陥る。人間というのはそもそもそういう弱いところをもつ存在なのだ。

そういう「わかっちゃいるけどやめられない」(by植木等)人間を、水に落ちた犬のように叩いても仕方あるまい。オレはそう思うのである。

さて、天声人語というのは、ふだん、こういう人間の愚かさを徹底的に糾弾するスタンスをとっている。たとえばの話だが、「原発ナシで生きていけりゃ一番いいけど原発受け入れりゃあ地元にカネも落ちるしなあ」みたいなこといってるド田舎の住民にたいして、「いやアンタのそういう発想は間違ってる(キッパリ)」とかいって説教をする立場である。

だからこそオレは、「いやそういう風に高みにたって説教ばっかりしたって、世の中何にもかわんねーよ、オタクらは安全地帯で偉そうなこと言ってりゃいいんだろうけどヨ」というスタンスで天声人語批判をしているのだった。

だが今回の天声人語は、あきらかにそういう人間の弱いところ、クズ的生き方をやむを得ないものとして認めている。オレとしては、「お、オマエラこれまで大衆を啓蒙してやる、的なゴーマンなところが鼻持ちならなかったが、そうかそうか、クズ的生き方を容認してくれたのか、よしよし」という話であって、つまり天声人語は日頃の貴族主義をこの回に限っては捨て去ったのである。たいへん結構ではないか。

というわけで、世間の大勢には反するだろうが、オレ的には「こういう記事ならたいへんよろしいので今後もこの線で頑張ってほしい」とエールを送っておく。





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問題は「歌がない」ことだったのだ [身辺雑記]

なんでこう鬱々として楽しまないのだオレは、という風に考えていたのだが、ひとつわかったことがある。

「歌」が足りないのだ。嬉しいにつけ悲しいにつけ、人は歌を唄うものなのだ。

唇に歌をもて。
それを忘れたら人間の心は痩せ衰えていくのだった。
そういえば全然カラオケにいってないぞオレは。

よし。とりあえずYoutubeを開いて、レ・ミゼラブルの Do You Hear the People Sing? を流しながら歌ってみる。

爽快だ。

そういうことだったのだ。




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村上春樹がキライなのは何故なのか考えてみた(笑) [あとらんだむ]

また村上春樹がさんざっぱらティーザー広告で引っ張ったあげくに小説を出したというのだが、それも午前0時から販売しますよなどというバカな本屋まで出現したものだからバカが夜中に行列つくるありさまで、もうほとんどWindosXPとかiPhone発売の世界である。

・・・などと毒づいているのはオレがこの男を嫌っているからで、たとえば外国の催しとかに呼ばれるとホイホイ出かけていって講演なぞするのだが、国内では公の場に全然出てくることもなく、だからこんど公開インタビューを日本でやるらしいのだが、それがあんまり珍しいことだからニュースになってしまうほどである。

小説を買って読んでくれ、そこに全部書いてある、それ以上のことは言わんから、というつもりなのだろうが、では何で外国だと聴衆の前で講演したりするのか全然説明がつかんし、ハワイあたりの大学で講義なんかもしてるというではないか。オレとしてはこれは「バカな日本人どもは黙って本買ってりゃいいんだよッ!」というメッセージであり、でも何故か毛唐には好かれたいという歪んだ植民地根性のあらわれではないのかと疑っている。なんだ偉そうなこといってもその程度かヨ、というワケでこの男は嫌いである。

というか、よくよく考えると、オレも昔「ノルウェイの森」か何か買って読んだことはあって、つまり基本的にこの男の本は読んではいないのだけれども、たまさかそういう機会にこの男の小説世界に嫌悪をもよおしたという事実がないわけではないのである。(追記:あ、そうだ、そういやこないだ読んだ『1Q84』もこの男の本であったな。これはオレ流ユーフォロア的視点からすると失敗作である、というのは前に書いたw)

で、この男の小説じたい好きになれないのはいったい何故なのだろうと思うのだが、たとえばたまに読む西村賢太の哀れを誘う世界が実に心に染みいってきて、「あぁこれは良いなぁ」とシミジミしてしまうオレの感性からすると、「やれやれ」とかいって女の子とこじゃれた会話を楽しんだ末に××しちゃったり○○しちゃったり、スパゲティを茹でながらビールを呑んだりバーボンか何かをあおったりとゆー、一見苦悩なんかしちゃってんだけど結局ソイツは勝者の余裕じゃネ?みたいな彼の世界に根源的な憎悪を抱いてきたからではないかと思い至るのだった。

そういえば、と思い出すわけだが、遠い昔、オレにも田舎から東京に出てきて木賃アパートで生活していた青春時代というものがあった。根がクライし人見知りなので、友人なんかできないのだった。ましてや彼女なんて。14型か何かのブラウン管の赤い小型テレビと、食費をケチって生協の本屋で割引で買ってくる本だけが寂しいオレの相手をしてくれるのだった。で、たまに早稲田あたりの名画座に行って夢中で映画を観たりしたンだが、あれなんかも孤独を癒してくれたのだなぁ今おもうと。ソフィー・マルソー。クリスティ・マクニコル。心の恋人であった。

もひとつ、たまに人と話をすることもないではないのだが、それは何かというと、隣室に住んでいる土方のオッサンが「ちょっと呑まない学生さん?」とかいって来るので、まぁ断るのも悪いので行って酒盛りをするのだった。

ま、それはそれでいいんだが、このオッサンはどうも分裂病を患っているようであった。「実はオレ、むかし佐藤栄作の娘とイイ仲だったんだけどなあ、仲を裂かれて今じゃこんなありさまよ」。酔うとそんな妄想を繰り返し繰り返しオレに語って聞かせるのだった。酒は焼酎か安い日本酒をそそいだコップ酒。つまみはサバ缶。みたいな。なんだよあのオッサン!とか内心毒づきながら、実はそれが「癒し」になっていたんじゃねーかと思われるフシもあるのが哀しい(笑)。

いやいや、つい誰もききたくないツマラン昔話をしてしまったが、つまりはそういうことである。気取るんじゃねーよ村上春樹。才能があるのかなんか知らんが、偉そうに格好つけて肩で風切ってるヤカラはどうにも許せねえ、ただそう言いたかっただけなのである。嫉妬というやつなのだろうな。わかってはいるさ。



【追記】

なおその後、なんとなくウィキペディアで「村上春樹」の項を眺めていたら、小谷野敦の弁として次のようなことが書いてあった。孫引きさせていただく。

巷間あたかも春樹作品の主題であるかのように言われている『喪失』だの『孤独』だの、そんなことはどうでもいいのだ。(…)美人ばかり、あるいは主人公の好みの女ばかり出てきて、しかもそれが簡単に主人公と『寝て』くれて、かつ二十代の間に『何人かの女の子と寝た』なぞと言うやつに、どうして感情移入できるか。
  *原典は「『ノルウェイの森』を徹底批判する−極私的村上春樹論」『反=文藝評論』(新曜社)とある

若いころもてなかったことで有名(?)な小谷野敦ならではの主張(笑)であるが、そう、オレの言いたかったのはたぶんこういうことなのである。



【追記の追記】

なお、その後、ドリーさんと名乗る方が『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』について書かれたアマゾン・レビュー「孤独なサラリーマンのイカ臭い妄想小説」が大評判になっていると知り、読んでみたのだったが、実に共感できる内容であった。(2013/05/06記)


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去年今年貫く棒の如きもの [あとらんだむ]

高浜虚子の有名な句である。

が、オレのこの句にたいする解釈はいささか品のないものである。

正月元旦。アサいちでクソをした。実に、太い見事な棒状のものである。

去年喰ったものが、ことしクソになって出る。

まさに年越しをぶっとい棒状のものが貫いた。あぁ愉快愉快。そういう句として読んでみたいものである。



フォルクスワーゲンのFAQ [Golf6]

昨年末に買ったゴルフ6、サンデードライバーなのであんまり距離乗ってないのだが、それはともかく、日本車との違いというのを意識させられることは時折ある。

たとえば施錠システム。リモコンキー1回押しで施錠すると「デッドロック状態」というのになって、室内からはドアが開けられなくなるのである。

なぜそんな風になっているのかというと、ガラスをたたき割って車上荒らしをしようという泥棒がいた場合でも、ドアは開かないので侵入するためには割ったガラス窓から入っていくしかない。そんなことまでして車上荒らしするなよ、という話である。

もちろん車内に誰か乗っている状態でうっかり外からリモコンロックしてしまうと、中の人が脱出できなくなってタイヘンという事態も考えられるので、なかなか微妙な機能ではある。ちなみにリモコンキー2回押しだとデッドロックにはならない。


さて、この「デッドロック状態」になると、駐車中の右ドアの根本のあたりに赤いランプがピコピコ点滅しはじめ、つまり「いまデッドロック中ですよ」と点滅でアピールする仕組みになっているのだった。で、ふと思ったのだが、このランプはほっとくとずっと点きっぱなしである。バッテリーはあがらないのか? 

ググってみたら「Volkswagen 美浜」というディーラーのサイトにFAQがあって答えが書いてあった。消費電力が小さいので平気、みたいなことが書いてある。LEDなんだろう。

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まぁことほど左様に、国産車ワールドどっぷりだった人間にとっては発見することの多いゴルフである。ウインカー/ワイパーの位置からはじまって、リアフォグランプの位置とか、今回のロックシステムにいたるまで、いちいち驚いてしまうのである。惜しむらくは、その辺の「違和」についてちゃーんと説明し尽くすような説明書マニュアルを出してくれてればいいのだが、そういう日本人目線の説明書はないし、いちいちネットで調べたりしないといけないのである。

顧客を甘やかさない、というか、その辺の突き放しぶりというのはやっぱ「外国メーカー」だな、と思ったり。


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呪われしものの書~その3 [あとらんだむ]

たとえば「家」とはなんだろう?

家なのかそうでないのか何ともハッキリしないものがあるとしよう。さて、それが一体どちらなのか、判断の基準を明示してどちらかであると判断を下すのは不可能なことだ。

もし人が住んでいる納屋があったとしたら、それは家=ハウスである。だが、もし「何ものかが住んでいるのが家だ」というのなら、どんな構造をしていようと関係はないのだから、鳥の巣でさえ家になってしまう。「人間が住んでいるかどうか」というのも照らすべき基準とはいえない。なぜなら、われわれは犬の住むところでさえ「ドッグ・ハウス」というのだから。建築材で出来ているのが家、ということもできない。なぜならわれわれは [氷でできた] エスキモーの家を「スノー・ハウス」というのだから――貝はヤドカリのための家であり、さかのぼっていえば、それはもともとその住み家を作り出した貝じしんの家でもあった。ワシントンのホワイトハウスと浜辺の貝のように一見してあまりに違うもの同士であっても、家であるという点においては連続性をもっているもののようにみえる。

これと同様に、たとえば電気についても、それが何であるかを言い表すことのできる人間はいない。それは「熱」とか「磁力」とか「生命活動」といったものとハッキリ分離できるようなものではない。そう、哲学者や神学者、生物学者たちは、それぞれに「生命」を定義しようとしてきたが、そうした試みも失敗してきた。なぜならハッキリとしたかたちで定義できるものはそこにはないのだから。実際のところ、およそ生命にまつわる現象というのは、化学や電磁気学、天体の運行といった場にも姿を現わしてしまうものなのだ。

濃紺の海に浮かぶ、真っ白なサンゴの島々を考えてみよう。

一見したところでは、それぞれの島は異なってみえる。見たところ、それぞれには個性があるようであり、ハッキリとした違いがあるようにみえる――しかし、それらはすべて同じ海底から突き出すようにして存在している。海と陸との相違というのもハッキリしない。海が満ちているところに陸地が生じることもあれば、土地が広がっているところに水に満ちた場所が生じることもある。

そういうわけで、もし万物が相互に地続きになっているものであるならば、或るものが「そう見える」からといって、それが見たままのものであるとは限らない。テーブルの脚であっても、もしそれが何かよそから投影されて在るものだとしたら、単なるテーブルの脚以上のものである。もしわれわれが物理的な意味で環境とひとつながりの存在だとしたら、あるいは精神的な意味で、われわれが環境とのかかわりを離れて何事かを表現することなどできないのだとしたら――われわれがふつう言っているような意味での「現実世界」に生きている人間など一人もいない。

さて、われわれがここで言っていることは二通りに捉えることができる。

ひとつは「伝統的な一元論」としてのそれ。そして、もうひとつはこういう意味合いのものだ――固有のアイデンティティをもっているようにみえるあらゆる「事物」は、どこか見えないところにあるものから投影された島々のようなものに過ぎず、詰まるところ自他を区別する確固とした境界線など有してはいない、ということ。

こうした「事物」はどこからか投影されたものに過ぎない。にもかかわらず、それらは「どこかに隠れているもの」――それは個々の事物が固有のアイデンティティを有しているということを決して認めようとしないのだ――から必死で我が身を引き剥がそうと試みる。

そうやってすべての事物が互いにつながりあった関係を頭に浮かべてみる。そこではすべてのものがそれぞれに違いをもっているようではあるが、それらが目指しているのは畢竟ひとつの目標である。つまり「自己を他から引き剥がして確固たる実在を手にいれること」である。それは「実体をもつ自己」「確固たる自分」「他との境界をもつ存在」「揺るぎなき独立」を得ることであり――あるいは、それを人間にまつわる言葉を使って言えば「個性」や「魂」を立ち上げることだ、ということもできよう。

自らをリアルなもの、肯定しうるもの、あるいは絶対的なシステム・支配するもの・組織・自己・魂・実体・個人性をもつものとして立ち上げたい――そのように考えるものはすべて、まずは自らの周囲、自己を形作っているものの周りに輪郭線を引き、次いであらゆる自己ならざる「もの」を排し、放逐し、あるいはそこから遠ざかっていくことによってのみその試みを成就することができる。

もしそのようにできなければ願いが成就することなどありえない。

だが、仮にそのように行動できたとしても、それはあらかじめ失敗が宿命づけられた悲惨な行動たらざるを得ないのだ。それはあたかも海面上に円を描きながら「円の中に立ち騒いでいる波というのは、円の外側にある波とは全然無関係だ」といっている人物(むろん内側と外側の波はつらなっているわけだ)、あるいは「認められたもの/否定されたものは劃然と区別可能なのだ」と真剣に説いている人物のふるまいにも等しい。

新島八重さん [あとらんだむ]

NHKの大河ドラマというのは何か苦手で全然みてないのだが、「八重の桜」というのをやってることは知ってる。

で、主人公・新島八重を綾瀬はるかが演じているということも。が、何か違和感があるのは、やっぱり写真の残ってる実在した人物を天下の美人俳優が演じるときの嘘臭さなのだった。で、ふと思ったのだが、彼女は山口敏太郎氏に似ているのではないか。いやリアリズムで演じてても誰も見ないだろうという大人の事情はわかるにしても。

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天声人語の書き手が変わるそうだ [天声人語]

天声人語の書き手は福島伸二、冨永格の両氏という話であるのだが、けさの朝日を読んだらこの冨永氏が4月からパリだかに行って別の仕事をするような話が書いてあった。

片割れの福島氏がどうなるのかは書いてなかったので、福島氏がひとりで担当するのか、あるいは新しい書き手が一人加わるのか、はたまた総取っ替えなのか、現時点ではわからんのだが、まぁそのうちアナウンスがあるだろう。

ともあれ4月からの天声人語に注目だ。劣化のはなはだしかったココントコの天声人語はこれから良い方向に変わっていくのだろうか。もしそういうことになったら冨永氏、立つ瀬がないんだけどネ(笑)
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呪われしものの書~その2 [あとらんだむ]

冒頭部の超訳その2です。


従って、私は、「呪われしもの」という言葉を「追放されたもの」という意味で使っている。

だが、追放されたものという言い方には、それがいつの日にか「その場に居残るもの」に転ずる可能性もあるはずだ、という思いを込めている。

こんな風に言ってもよい。今日はここに残されたものであっても、明日どうなるかはわからない。

そして今日放り出されたものが明日になればこの場にある、ということもありうる――もちろん今日放逐されたものが、未来にあってもやはり放り出されている、ということもあるだろうけれど。

われわれとしてはこう言ってみたい。「いまここにない」と「将来においても存在しない」のはざまにも――あるいはわれわれの身の回りにある日常的なものと(いけすかない言い方だが)「実存的なもの」のはざま、といってもいいのだが――大いなる転変はあって、それは天国と地獄の間を往還する運動にもなぞらえることができる。つまり、呪われしものが、そのままずっと呪われしものであり続けるわけはない。救済があるからこそ地獄に堕ちることもある。となれば、われわれの呪われし悲惨なるものが、やがて麗しき天使に化けることもあるのではないか。さらに推論を進めていけば、やがてはそのようなものどもがかつて追い出された場所に帰還することもあるのではないか、そう思われるのだ。


われわれとしてはこう言ってみたい。いかなる者であれ自己を立ち上げようとするときには、何ものかを他者として外部に放り出さねばならぬ――つまり、一般的に或るものが「存在している」という状態は、程度の差こそあれ「内にあるもの」と「締め出されたもの」の間に存在する、それ相応にハッキリした相違点が記述されることによって成りたっている。

しかし、実際にはそれほどハッキリした相違点などない、ということもわれわれは言っておかねばなるまい。万物は、チーズを食い荒らしている虫やネズミのようなものだ。ネズミと虫――この二者ほどかけ離れたものはないようにもみえる。ネズミであればこのエサのところに一週間通うのだろうし、虫なら一か月。が、どちらの場合も外からはチーズのようすが変わっていくのが見えるだけ。結局われわれはみな虫かネズミ。そうしたものが食い荒らしているチーズの外側だけが、時に応じて様々な姿をみせるだけの話である。

あるいはこうも言える。赤色と黄色とはまったく異なる色だとはいえない。それは単に「黄色の有する彩度は赤のそれとは異なっている」というだけの話だ。つまり赤色と黄色は連続していて、だからこそ両者が溶け合う領域にはオレンジ色というものが存在するのである。

それではこの黄色と赤色の議論を踏まえて考えてみよう。すべての現象について、赤の要素を含むものを「真」、黄色の要素を含むものを「偽(ないしは架空のもの、でもよいが)」として科学的分類を試みることになったとしよう。するとその境界領域は「偽」だといえるけれども、同時にどちらとも言い難い恣意的な性格も持っていることになる。なぜならオレンジ色をした物体というのはまさにその変移する領域にあるので、事前に設定されたボーダーラインの両側とつながりをもってしまうからである。

こうやって考えていくと、われわれは次のようなことに気づかざるをえない。

つまり、分類すること、内部と外部のものを分けることには何ら根源的な根拠はなく、そうした考え方は「赤色と黄色は区別できる」というこれまで一般的だった考え方よりもむしろ道理が通っているのだ。

科学が自ら喧伝するところによれば、これまで科学は膨大なデータをその内側に取りこんできた。実際、そうでなかったら、科学というのはいったい何をしているのか、という話にもなるだろう。そして、これもまたその喧伝するところであるけれども、科学はこれまで膨大なデータをその外側に放り出してきたのである。さて、もし赤色が黄色との連続性をもっているとしたら? もし「内側にとどめ置くか」「外側に放り出すか」という基準がハッキリした分岐点をもたず、連続性をもっているのだとしたら? 科学は、最終的に受け入れられたものとそれほど変わらないものを外部に放逐するようなことをしてきたのに違いないのだ。互いにオレンジ色の中に溶け合ってしまう赤色と黄色というのは、あらゆるテスト、あらゆる基準、ある種の説が生み出されてくるプロセスを象徴的に示している――。

あるいはこうも言える。「いかなる問題であれ、すべてのものは分類し区別することができる」という主張は、「万物には判断の基準となるような確たる判別のポイントが存在する」という錯誤の上に成り立つ幻想なのだ――。

また、そのように知的思考を用いてものごとを探究する営みというのは、「事実」「物事の根源」「普遍」「法則」「定式」「三段論法の大前提」といったものを見つけ出すため続けられてきたのだった。その結果、これまでにどんな達成があったかといえば、せいぜいが「ある種の事柄は自明である」と言えるようになったことぐらいである。にもかかわらずわれわれは、何やら「証拠がある」と聞くと何かが証明されたのかという風に考えてしまう。

これが彼らのいう「探究」なのである。それは実際には何らかの達成を成し遂げることなどなかったのだが、にもかかわらず科学は、ある種の達成があったかのようにふるまい、支配者として君臨し、宣命を重ね、そしてその意に沿わないものを退けてきたのだった。

森で屁をこく [Nice]

ダラダラとネットサーフィン(死語か?)していたら、「森で屁をこく」というところに流れ着いた。

素晴らしい! ちょっと斜に構えたよしなしごとエッセイ。全部読んでないけど。

こういうのを待っていた。ってか、2003年から更新してないじゃん orz

この世界では有名人だったりするのだろうか。たまにこういう発見があるからネットは好きだ。

長野県人は粗食なので長生きなのか [天声人語]

今回は「天声人語」ではなく、朝日夕刊の「素粒子」なんだが、きのう3月1日のが噴飯物だったので記録しておこう。

そば、みそ、馬刺し、蜂の子、ざざむし。秘訣は質素。いえそれが一番のぜいたく。男女とも長寿一番の長野県


このたび「長野県人の平均寿命は男女とも都道府県別でナンバーワン」というニュースが流れた。長野県の産であるオレとしては嬉しいニュース。で、それをネタにしてんだが、なんなんでしょうねコレは。

なんか長野県人が長寿なのは質素な食生活をしているから、ということを言いたいらしいんだが、まず「馬刺し」というのは粗食ではない。むしろごちそうである。

それからおそらく粗食の代表格として挙げられている蜂の子、ざざむしというのは、少なくとも今の長野県では広く食されているものではない。とりわけざざむしを食うというのは伝統的には伊那地方の食習慣であり、長野県全般にあてはまるものではまったくない。

いや、そもそも「長野県人の長寿の秘訣が粗食にある」という判断じたい、かなりバイアスがかかっている。むしろ、地域の保健婦さんとかがこまめに健康指導をしたりする保健システムが奏功しているというのが定説ではないか。

おそらく、長野県・田舎・貧乏・粗食・ざざむし・蜂の子、みたいな貧困な連想がアタマに浮かんだので、それをそのまま書いてしまったのだろう。トンチンカン。

この「素粒子」という欄、もとより論理的なことを書けるスペースではなく、頭に浮かぶよしなしごとをただ書き記してみようという欄であるから、いろいろ言っても仕方ないのだが、しかしこれはもうほとんど居酒屋の片隅で、物知り気取りでその実ナニもわかっちゃいないジジイが繰り出す与太話と寸分違わんではないか。

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