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聖書の好きなところ [あとらんだむ]

オレは、まぁ若干破戒に傾斜しているとはいえ一応仏教徒だという自覚はあって、「一切皆空」とかいわれると「まぁそうだよなー」と思うような人間であるんだが、たまに何となくパラパラと聖書(新約デス)をめくったりするようなことも、ま、ないではないのだった。

もっとも、その読みは基本的に懐疑的である。「いくらなんでも刑死したオッサンが墓場から甦るわけないジャン。だいたい甦ったあとの事績がいろいろ書いてないのが不自然だよなー。この甦ったと称する男が本当にイエスと同一人物だと言い張るんだったらサ、いろいろ問い詰めてリアルなトコ証言してもらわにゃ納得いかんよなー。自らを捨てて人間の罪を背負ってくださった、みたいなとこまで言うからにゃあ、もっと検証せにゃいかんでしょ。それが全然ないじゃん」みたいな、つまり異教徒丸出しのボートクすれすれの読み方しかできないのである。

いや、しかし、よくわからん文句が並んでいる聖書のなかで、ときおりキラリと光るフレーズを発見することもある。たとえば次のようなところ。


イエスはそこを去って故郷にお帰りになったが、 弟子たちも従った。安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた。多くの人々はそれを聞いて、 驚いて言った。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような 奇跡はいったい何か。この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの 兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」このように、人々はイエスにつまずいた。 イエスは、「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」と言われた。 そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことが おできにならなかった。そして、人々の不信仰に驚かれた。それから、 イエスは付近の村を巡り歩いてお教えになった。(マルコ6:1-6:6)



イエスはこれらのたとえを語り終えると、そこを去り、故郷にお帰りになった。会堂で教えておられると、人々は驚いて言った。「この人は、このような知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう。この人は大工の息子ではないか。母親はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。姉妹たちは皆、我々と一緒に住んでいるではないか。この人はこんなことをすべて、いったいどこから得たのだろう。」このように、人々はイエスにつまずいた。イエスは、「預言者が敬われないのは、その故郷、家族の間だけである」と言い、人々が不信仰だったので、そこではあまり奇跡をなさらなかった。(マタイ13:53-13:54)



つまり、イエスが故郷に戻ってきたところ、その辺のオヤジが「おや、アイツ、大工のヨセフんとこのガキじゃね? なに気取ってんだヨ」的なツッコミを入れたというのである。するってーと、流石のイエスもたじたじである。「いやあ、預言者っつってもネ、故郷とか家族のいるとこじゃフツーの人になっちまうんだよねー(ポリポリ」とかいって、実際に「奇跡」も起こせなかった、という話なのである。

このあたり、実に真理をついているッ! つまり、なんか教団を立ち上げることに成功したカリスマであってもね、「あのさー、偉そうなこといってっけどさー、アイツ角のたばこ屋のせがれの定坊でしょ? オレ、アイツのおしめ替えたことあるんだよねー(笑)」的な、もう絶対的に彼の弱いところを握った人間に対しては、もうカリスマは通用しないのである。いくら天下のイエスであっても、はなから「角の大工ンチの小せがれ」だという風に見る人間に対しては全く無力なのでアル。

言ってみりゃ、聖書はここで宗教の幻想性というものをはからずも露呈させてしまっているのである。信じ込ませりゃ相当なことはできる。でも、しょっぱなでツカミそこなったら全然ダメ。

そしてこういう聖書のワキの甘さが、オレはとてもスキである。もちろんちゃんと勉強した聖書学者のセンセーは、この辺も違う解釈をされるんであろーが、ナニ、読み方は勝手である。そして、そういう読み方ができるから聖書いいよネという人間の出現をも肯定しているからむしろ聖書はエライということもできるのだね。
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