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引越完了ス [あとらんだむ]

というわけで、liveboorブログに完全に引っ越した。

…ま、こういう辺境ブログに好んで通ってきててブックマークしてるような奇特な方は、まぁ全国広しといえども二人か三人ぐらいいれば御の字であるからあんまり意味があることではなかろうが、ともかく引っ越しをしたら郵便局に転居届けを出すのが社会人のたしなみであるように、ココに改めて転居先を記しておくのも大人の礼儀というものだろう。

http://macht.blog.jp/

ま、こっちもほっといても当面消えたりしないと思うので、そのままにしておくけれども。
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引っ越してみようか、と。 [身辺雑記]

so-netのブログなんだが、前々から読み込む時に生じる「しばらくお待ちください」的遅延が気になってはいて、今回livedoorのほうに同名のブログを開いてみた。

軽いことは確かでアル。

こっちの過去のエントリーを移行して完全に乗り移ろうかと考えているが、スキルがないので、いっこずつ手作業でコピーせねばならず、面倒臭くなったらこっちに戻ってくるのかもしれぬ。
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靖国問題で安倍首相に献策ス [NEWS]

昨年末に靖国神社に参拝した安倍首相であるが、国内的にはともかく、国際政治的には親分のアメリカ様に「こらこら韓国や中国にケンカ売るのはヤメロや」と怒られてしまったようで、なかなか辛い立場である。

安倍首相は「ちゃんと説明すればわかってもらえる」という立場のようであるが、それはなかなか難しい。なんたらクリスティーンとかいうハーフのタレントが「ヒトラーのお墓参りをするに等しい」みたいなことを言って批判したらしいが、おおかた世界のジョーシキというのはヒトラー≒東条英機(≒昭和天皇)みたいな感じになっているので、そういう理解をされても致し方ない。

もちろん、全権を握った独裁者ヒトラーに対して、当時の日本の指導者たちは「どーしよどーしよ」と右往左往しているうちに何となく対米戦争をおっぱじめちまったわけだし、天皇にしても開戦前は「負けるんじゃねコレは。やめといた方がよくネ?」みたいな感じでかなりビビっていたワケで、別に世界制覇の陰謀を練っていたわけではない。

ついでに言っておくと、ドイツの場合、大多数の国民は「ヒトラーいいじゃん!」って喝采の声を上げて、クリスタル・ナハトでユダヤ人泣いてるのを見て見ぬフリしてたにもかかわらず、戦争が終わった途端に「ヒトラーガー」とかいって罪を全部アイツになすりつけてしまうという見事な自己保身戦略を展開しているのであって、ある意味「コスイ」気もする。

むしろ「東条英機はゴーマンな奴だったが、この日本の無責任体制のなかで敢えて責任を問うとすればアイツが槍玉にあがるのは仕方ない、っつーことで死んでいった哀れな奴でもあるし、哀悼の念を捧げるのもヤブサカではない」という見方をする日本の右翼の人たちは純真無垢で愛すべき人たちであるといえなくもない。

とゆーわけで、ここで安倍さんが靖国参拝をアメリカさんはじめ世界の人々に納得していただくには、もうこれは「日本は世界のスタンダードが通用しない、実にナイーブで特殊な国なのだからしょうがないのです」と言い募るしかないのではなかろうか。

たとえば、「針供養」とかを引き合いに出して説得を試みる、とかどうか。



折れた針とかを豆腐やコンニャクにさして、「お世話になりました」とかいって供養するアレである。モノである針でさえ長年使っているうちに単なるモノではなく、ある種の祀るべき人格的なものに転じてしまうというのが日本である。そういえば「付喪神」といってモノが単なるモノ以上のものになるというモノの考え方もこの国にはあるぞ。

いわんや人間をや、である。たとえ侵略戦争おっぱじめようが何しようが、のちのちカミサマになったって全然不思議ではない。なんたって折れた針が供養されちまう国なんだから。

・・・とゆーリクツはなかなかグローバル基準では通らないかもしれんが、ともかくそれぐらいのところから説き起こさないと、国内ではけっこう聞こえてくる「安倍さん頑張って参拝してヨカッタネ」という声は世界には通じないであろう。

いやナニ、こないだの五輪誘致のときだって、「お・も・て・な・し」とかいってから合掌するとゆー、およそインチキ臭いパフォーマンスで「オォ日本人ハスバラシイデスネ」という麗しき誤解を誘ったという前例もある。安倍さんには、こんご外遊される際は、そのたびに「ハ・リ・ク・ヨ・ウ」とかいってコンニャクに針を突き刺すパフォーマンスをしていただきたい。そうすれば事態は少しは改善される。ような気がする。しねーか(笑)。


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思考は現実化する [UFO]

オレは別にSFに詳しいわけではないのだが、「思考の現実化」をモチーフとして取りあげた作品というのは少なからずあるようだ。頭の中でいろいろ考えたりしたコトやモノが何故か現実の世界に出現してしまう、というアレである。たとえば古典的SF映画の「禁断の惑星」がそうであるし、これまた映画にもなったスタニスワフ・レムの「ソラリス」もそういう作品である。

実はそれと似た現象はリアルな世界でも起きている――といってもこれはUFOにまつわる話なのだが、「飛行船がもう少しで実用化する」という19世紀末、アメリカには今で言うUFO=幽霊飛行船が出現したわけだし、フランスのベルトラン・メウーによれば、20世紀の初めのパルプ雑誌には「自動車を追跡するUFO」「車を故障させてしまうUFO」「人々を誘拐するUFO」、つまりはその後になって実際に報告されるUFO譚のモチーフがもれなく登場しているんだそーだ。

「未だかつて誰も想像したことのないUFO」というのは基本的に出現しない。というワケで「UFO現象というのは目撃者の意識が投影されたものでアル」という説が出てくるのは理由なきことではない。

で、いまさら何でこんなコトを書いているかというと、いまふと気づいたことがあったからだ。

現代のUFO伝説が始まったのは1947年6月24日、アメリカの実業家であるケネス・アーノルドが9つの飛行物体を目撃したのがはじまりであるが、その物体は何やら三日月っつーかクロワッサンみたいなかたちをしていたらしい。つまり円盤状ではなかった。ところが「水を切って跳ねる円盤みたいに飛んでいた」というアーノルドの証言が一人歩きして、以来、「空飛ぶ円盤=フライング・ソーサー」という言葉が流布していく。

そして今。「三日月型をしたUFO」はあんまり飛んでいない。球体というのもあるけれども、やっぱり円盤型が主流のようである。そう、みんなが「UFOは円盤のかたちをしてる」と思っているから、円盤が出現する。

もちろんここで「思考が現実化したんじゃなくて、メディアでそういうイメージがバラまかれたんで、単にそういうの幻視したんじゃNE?」とゆー合理主義に立った解釈もあるわけだが、とりあえずそれは面白くないし、「着陸したUFOが着陸ポッドの痕跡を残していった」みたい報告例も多数あるので、ここでは却下しておきます。近代UFO伝説六十有余年の歴史は、まさに「思考の現実化」の歴史であった・・・のかもしれないぞ。


1980年代の青春について [天声人語]

けさの天声人語は、最近の若者はクルマに関心がなくなったようだ、オレたちの頃とは様変わりだ、というような話を書いている。しかし、だからどうしたという話に展開していくわけでもなく、何を言いたいのかは結局わからない。コラムとしては明かな失敗作である。いや、今回はそんなことを言いたいワケではないのだった。以下本題。

天声人語子は、田中康夫の『何となく、クリスタル』をマクラに1980年頃の世の中を回想してこんなことを書いている。

愛車自慢をしあう学生が少なくない時代だった。親に新車を買ってもらう者あり、必死にアルバイトをして中古を買う者あり。持たざる者は小さくなっていた

この辺にツッコミを入れたいのである。

実はオレなんかも1980年代に大学生生活を送った世代だから、その頃の世間の空気はある程度わかっている。だが、少なくともオレの身のまわりには「愛車自慢をしあう学生」なんてものは一人もいなかった(まぁオレにはそもそも友人なんてものはいなかったという話はあるけれどもw)。いやもちろん、六畳一間の木賃アパートで年がら年中くすぶっているオレのような貧乏学生とは全然違う世界に住んで、クルマで女とドライブして遊んでるような男だって実際いたことはいただろうよ。そのことは認めよう。

ただし。

「持たざる者は小さくなっていた」なんて事は絶対なかった。少なくともオレに関しては100%なかった。「キャンパスライフをエンジョイ」みたいなものはインチキだと思っていたオレは、銭湯だって週2回でいいと思っていたし身なりも汚なかったけれども、チャラチャラ遊んでるような連中とはオレは違うのだと無理やり自分に言い聞かせて、読めもしない原書をパラパラめくっては「知的プロレタリアートここにアリ」とか気取って、ま、今から考えると幼いけれども自分なりに一生懸命突っ張っていたのである。

まぁそれはともかく、オレが自信をもっていえるのは、大部分の学生はそんな世界を横目に「ちくしょうオレはオレで頑張るしかねーんだよ」と懸命に胸を張って生きていた、ということである。

しかるに、クルマを持たざる者は「小さくなっていた」などと平気で書いてしまう新聞記者というのは何なのだ。確かに天声人語の最後には「かつて持たざる者として(その時代を)過ごした」とか書いてあって、「自分もクルマなんてもってない庶民の側にいたのでヨロシク」みたいな嫌らしいエクスキューズをつけてはいるのだが、そんなことで誤魔化そうとしても駄目である。

1980年代の貧乏な学生は、クルマをもってる金持ちのボンボンに気おされ平伏して「オレは駄目だ~」みたいにしょげていた、なんてゆーのは完全な歴史の偽造である。馬鹿野郎、そういう金持ち連中の仲間に入りたくて入りたくて、揉み手しながら隙あらばお仲間に加えてもらおうと思ってたのはオマエだっつーの。そりゃ今や功成り名を遂げて天下の朝日の名コラムニストかなんかのつもりかもしれんがな、この文章ひとつみてもオマエの品性は下劣なのは丸わかりだっつーの。一緒にするんじゃねーよ!

・・・ちと興奮してしまった。が、なんか貧乏で空回りばっかりしてたけど、それなりに一生懸命だったオレの青春時代が冒涜されたような気がしたので、書かずにはいられなかった。


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レヴォーグ [物欲]

レヴォーグ.jpg

東京モーターショーで、レガシィツーリングワゴンの後継として来年スバルが売り出す「レヴォーグ」が公開されたとの由。


じつは以前も書いたように、オレは昨年、車をかいかえたのだが、最終的にちょっと気になっていたレガシィツーリングワゴンはやめたのだった。

四駆であるとか最近のアイサイトとか、どっか「メカで勝負」みたいなところのあるスバルにはとても好感をもっているんだが、オレは運転が下手だということもある。全長4775mmで横幅1780mmみたいなところまで肥大化してしまったレガシィツーリングワゴンは如何なものか、というのが結論であった(内装がショボイのも一因ではあったが。

あと、実際にオレが買ったのはゴルフ6なんだが、実はこっちの横幅は1790㎜でレガシィよりも大きい。「理屈にあわねーじゃねーか」という人がいるかもしれんが、ゴルフ6はドアノブ部分が微妙に10数㎜外につきだしている構造で、実質的には1780mm弱。レガシィより若干マシである。あと全長とか最小回転半径は比較にならんぐらい小さい)

そういう「レガシィでかすぎる」という声はスバルにも届いていたらしいのだが、かといって巨大化したレガシィはアメリカでよく売れてドル箱になっている。デカイクルマが好きな彼の国の事情からいえばこれからも巨大化を進めていかないといけない。

そこでスバルのエライ人は考えたのだった――ま、確かに国内には肥大化してしまったレガシィを悲しんでいるスバリストの皆さんもけっこういるようだし、ここらでひと肌脱いで、今のレガシィよりちっちゃい国内仕様のツーリングワゴンを新開発してあげようじゃないの――という流れで今回の「レヴォーグ」が完成したのだった(とオレは聞いている)。

そういう流れを聞いていたオレはけっこう感心してしまって、「おお、スバルもいいところあるじゃないの。万一次にクルマ買い換えるようなことがあればスバルに戻ってもいいよなぁ」などと思っていたのだが、今回のレヴォーグ発表を聞いて耳を疑った。

横幅1780mm。

今のレガシィと変わらんのだった。もちろんレヴォーグは全長4690mmというから現行のレガシィツーリングワゴンから確かに縮めてはいるんだが、たかだか10cmではないか。それで「小さくなった」とかいわれてもナンだし、そもそも国内での使い勝手に一番関係しているのは横幅なのではないか。それでいて「やりましタッ! 国内の皆様向けに頑張って作りましたッ」とかエライ人は豪語しているのだった。

どうしてそういうことになるのだろうか。「ちょっと天井低くして、全長も10センチ弱つづめれば古手のスバリストも『おぉ小さくなった!』って大満足だよネ」とか考えたのであろうか?

ネットなどをみていても「何でよ?」という声が多いような気がするんだが。いろんな事情はあるのだろうが、民草の声というのはなかなかエライ人には届かないものである。けっこううまくまとめてきたクルマのようだけに、なおさら残念である。

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夜の経済学 [読書感想文]


夜の経済学

夜の経済学

  • 作者: 飯田 泰之
  • 出版社/メーカー: 扶桑社
  • 発売日: 2013/09/26
  • メディア: 単行本


飯田泰之・荻上チキ『夜の経済学』読了。各章それぞれに違った問題を取り上げているんだが、そういうこともあっていろいろな読み方のできる本である。

まず導入は「日本にフーゾク嬢は何人いるか?」「フーゾク産業の市場規模は?」みたいなハナシ。なんつーか下世話ではあるが実に興味深いデータを各種調査・統計やらフェルミ推定とやらを駆使して割り出してみました、みたいなパートで、ちなみに日本全国でフーゾク嬢は30万人ぐらいいるらしいぞ。

ま、そういうハナシを楽しんでいるだけでもいいんだが、これも実はつかみであって、そういうネタを通して数字・統計によってたつ経済学的思考(より広くいえばデータにもとづいた思考法ということにもなるのだが)の基礎を学ぶ本、ということもいえるのだった。じっさい下半身ネタばっかりじゃなくて、荻上チキ氏のパートでは流言・デマの社会心理学みたいなハナシもでてくるし。

そこでチト思ったのだが、この本、そういやこないだ読んだ 堀井憲一郎『ホリイのずんずん調査 かつて誰も調べなかった100の謎』という本とも、どっか通底しているものがあるぞ。こっちは確か「週刊文春」の連載をまとめたものである。堀井氏はべつにアカデミズムの人ではなくて、統計学を知ってるともおもえんが、「郵便ポストの集配は時間通りにちゃんとくるか」みたいな、どーでもよい調査を延々とまとめたものであって、これもやはりそれなりに「データ主義」の本。やっぱり説得力があった。


ホリイのずんずん調査 かつて誰も調べなかった100の謎

ホリイのずんずん調査 かつて誰も調べなかった100の謎

  • 作者: 堀井 憲一郎
  • 出版社/メーカー: 文藝春秋
  • 発売日: 2013/08/06
  • メディア: 単行本


とかく日本人は「今より昭和30年代のほうが良かった」「犯罪の凶悪化が進んでいる」とか、自分の思い入れにもとづく印象論でいろいろ世の中を語ってしまうところがある。ハッキリいうとオレも統計学の概念はイマイチわかってないけれども、そういうワケでこの『夜の経済学』みたいな、間口が広くて啓蒙的な本というのはもっともっと読まれていいと思ったなあ。



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このたびの食材偽装について [NEWS]

一連の食材偽装問題であるが、食に一家言おもちのルキウス氏@「唇からナイフ もしくは余計なお世話」が核心に触れた発言をしている。

お読みいただくのが一番早いのだが、オレ流に言い換えると、あれは根本的には消費者側のナルシズムの問題だというのである。

「××産の一級素材を食うオレって、違いのわかる男だよなーフフフ」。違いなんてわかっちゃいないのに、そうやって気取るから、店の側だって「どうせエビの違いなんてわかんないくせに気取りたいだけなんでしょ? じゃ、ブラックタイガーでもいいわよね? どうせ満足してお帰りになるのでしょうホホホ」とつけこんでしまうのである。とまあ、そういった構図を指摘しておられる。

ま、そういう風に騙されたとしても、本当のことを知る前には「うまいうまい流石だ」とか言ってたワケであるから、そこで「偽装食材だ!」とかいっていきり立つのは自らのバカを満天下にさらすのに等しい。が、いったん勢いがつくと「そうだそうだ悪いヤツは許せん」とかいって水に落ちたイヌをたたくのが大好きな日本人である。かくてマスコミなども大騒ぎして、恥ずかしげもなく「食材偽装は許せないっ」とか大騒ぎをしてしまうのである。

アホですね。

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完本 何かが空を飛んでいる [身辺雑記]


定本 何かが空を飛んでいる

定本 何かが空を飛んでいる

  • 作者: 稲生平太郎
  • 出版社/メーカー: 国書刊行会
  • 発売日: 2013/11/25
  • メディア: 単行本



というわけで、待望久しかった稲生平太郎『何かが空を飛んでいる』が今月ようやく復刊される運びと相成った。とゆーか三部構成になってて、一部が「何かが空を飛んでいる」、二部はオカルト関連の論考集なのであろうか「影の水脈」、三部は「他界に魅せられし人々」というラインナップ。

古今東西の幻想文学に造詣の深い著者だけに二部以降はオレなどはよく知らんネタ満載のようであるが、フレデリック・マイアーズなども登場するようであり興味津々。定価3,360円だそうだが、こういう本を買わずして何を買う、というかんじ。


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自己批判大いに結構 [天声人語]

天声人語子が、けさの新聞で珍しく自己批判をしている。大変けっこうなことである。こういう話である。

わが身の不明を恥じている。以前、電車の中で化粧をする女性がいつごろ出現したのかについて触れた。20年ほど前の本紙に、近ごろ多いとの投書が載っていると報告した。それどころではなかった▼驚いたことに、1935年6月の本紙にあった。電車や人混みで顔をはたき口紅を塗る女性をよく見かけるが、感心しない、人の見ない場所でしなさい、と。実は戦前すでに珍しいことではなく、年長者は眉をひそめていたらしい▼お年寄りや重い荷物を持った人に電車の席を譲ろうとしない青年をとがめる文章もある。眠るふりをしたり、読んだ新聞に再び目を落としたりという描写は今日でも通用しそうである。37年4月の本紙だ

で、読み進めると、じつはコレ、よそ様から指摘を受けて気づいたらしいのだな。以下はその続きであるが、つまり本を読んで気づいた、というハナシである。

▼こうした事例を集めて一冊の本ができた。コピーライターの大倉幸宏(ゆきひろ)さん(41)による『「昔はよかった」と言うけれど』。現代日本のモラルの低下を憂える声に疑問をもった。戦前はこんなではなかったって本当か、と。5年かけて材料を集めた▼古きよき時代を懐かしみ、今時の若い者を嘆く。人の世の歴史はその繰り返しだろう。昔はよかったとは往々、印象論か個人的な感慨にとどまる。過去への幻想や錯覚をもとに「取り戻せ」と唱える危うさを、大倉さんの本は指し示す

なるほと、これまでにも管賀江留郎『戦前の少年犯罪』とか、「むかしは良かった」というジジイの思いこみを吹っ飛ばす好著はあったわけだが、またその手の本が出たのだな。よろしい。ただし、このあとのシメの部分がいかにも天声人語調である。こんな調子である。

▼小中学校の道徳教育を教科に格上げするという。文科省の懇談会が案をまとめた。政権の悲願だ。何をどう教えるか。かつての修身はよかった、戦後教育の罪は大きいという、ありがちな発想に陥ることのないよう願う。

でもね、よくよく考えると、「昔は良かった、今は良くない」っツーのは、「戦後民主主義は良かった、今はどんどん悪い方向に向かっている」ッて朝日新聞がさんざん煽ってきたストーリーとまったく同型ではないのか。もちろん右翼の皆さんが「道徳教育だっ!」とか叫ぶのはアナクロで、「成果」は全然上がらんのは目に見えているから結論としてはまぁそんなに外していないんだが、でも「お前が言うか!」という気はするぞ。

が、であればこそ、今回の「反省」がホンモノであるかどうかを、ワレワレとしてはじっくり見届けていきたいものである。「朝日史観」がホントーだったのかどうか、日々検証を重ねて反省をしていって欲しい、みたいな。


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NHK [NEWS]

こないだ驚天動地というか、「日本は法治国家ではなかったのかッ!」と思うすごいニュースがあったので備忘録がわりに記しておこう。

NHKが受信料の契約を結んでいない市民に対して「カネ払え」と民事訴訟を起こし、で、東京高裁は「受信者が拒んでも、NHKが契約を結ぶよう通知してから2週間で契約は成立する」という判断を下し、この市民にテレビ設置から4年分の受信料11万円の支払いを命じたのだそうだ。

オレは法律にはまったく弱いのだが、フツー契約というのは甲乙双方の合意に基づいてのみ成立するものだ、と思って50年ほど生きてきた。で、これまでおよそその判断は間違っていないと思っていたのだが、何とソイツは間違っていたのだった。

つまり、放送法とかいうワケのわからん法律を根拠にすれば、この「契約」というのは一方がもう一方の合意ナシに、「はい契約してね、拒んでもダメだから」と言い募れば自動的に成立することもあるらしいのだ。

で、これは法律のセカイでは別に不思議ではないのだろう、たぶん。天下の東京高裁の裁判長サマが言っているんだし。となると、自由意志に基づいてのみ成立するとオレが思いこんでいた契約というのは、勝手に誰かさんが「ハイ成立!」と宣言すればオレの意志には何ら関係なく成立つものであり、この世界は、じつはカフカの世界と紙一重だったのだ。いや「自由意志なき契約」という概念は、なんか一党独裁の共産主義体制のようでもあるな。実は日本とはそういう国だったのだ。難波孝一裁判長、おしえてくれてどうもありがとう。m(_ _)m

難波孝一裁判長.jpg

しかしだな、NHKはこれまで、「NHKは国家のイヌなどではなく不羈独立のジャーナリズムなのだよ。じっさい税金で食ってるわけじゃなくて、受信料を支払っている一人一人の視聴者の皆さんの信託のもとに仕事をしてるわけだしネ」と格好をつけてきた。だから国営放送じゃなくて公共放送なんですよ、とうそぶいてきたわけだナ。ところが今回の判決は「視聴者の意志に関係なく強制的に支払いをさせる権利」」をNHKに付託してしまったのだから、これまでの「視聴者の皆様に支えられたNHK」という説明は完全に破綻した。実質的な「徴税権」をかちとってしまったのだから「皆様のNHK」もクソもない。つまるところ、NHKというのは国家権力の末端に位置して放送業務をしているお役所、ということなのであろう。

であるから、今回の判決を機に、NHKも「我々は実質国営放送局デス」とでも宣言したらどうか。いや、いっそのこと放送法とやらも改めて、受信料ではなくて税金としてカネをとることにして、名実ともに国営放送局にしてしまえばよろしい。そうすればオレみたいに誤解してしまう人もなくなるだろうし。

あぁそうだ、今度NHKの最高決定機関であるところの経営委員会にも、安倍首相となかよしの右翼の方々が大挙就任なさるようだ。一切合切リニューアルなさるにはちょうど良い頃合いだと思うが如何か。

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神戸拓光選手 [あとらんだむ]

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以下はこの夏、ネットでもちょっと話題になった話なのだが、備忘録的に書いておこう。

最近「スポーツ選手を鍛えるのに暴力はダメだろう」という風潮が広まってきているんだが、「そんなことないだろう」というのがオレの持論である。スポーツの世界の最先端をいく連中は多くの場合、もう半分人間を超えた猛獣みたいな連中であって、力づくでムチをいれて鍛えないとトップを疾走できないのではないか、「スポーツ選手に手を挙げるな」みたいな甘ったるいヒューマニズムを超えたところで連中は死ぬか生きるかの切磋琢磨をしてんではないかと思うのである。

言い換えてみれば、基本的に一流のスポーツ選手というのはリクツの通らない「反理性」の世界に生きている。もちろんプロ野球選手のなかにも「体罰反対!」とかいっている桑田真澄みたいな知性派がいるわけだが、彼の場合はプロ選手としては恵まれない体格をカバーするために頭脳方面が異常に発達してしまった特異な選手だとオレは思っている。あるいは400メートルハードラーの為末氏なんかもその系統か。

と思ってはいるんだが、しかし、ここでたまたまツイッターか何かで知った人物のブログを読んで驚いたことを白状せねばなるまい。千葉ロッテマリーンズの神吉拓光なる選手がブログに書いている「茜雲」なるエントリーである。内容はといえば、例の1985年の日航機墜落事故について書いたものなのだが、彼はたまたま大学時代に興味をもってこの事故を調べ始めたらしく、そうしたプロセスの中で感じたことどもをこのエントリーでつづっているのである。

詳細はここでは触れぬ。が、ともかくそれは全然「野獣派のアスリートの咆吼」などではなく、人間に対するやさしさ、愛情に満ちた、きわめて高度の知性を感じさせる表現であったのだ。神戸選手は身長191センチ・体重98キロという大男らしく。オレの説によると、こういうスポーツ選手は天賦の才にめぐまれた「筋肉バカ」であるはずなのだが、全然違うではないか。

いま思うことは、こういう心優しき人間に超一流選手になってもらい、オレの仮説を完膚無きまでに否定していただけたらオレはむしろ嬉しいぞ、ということである。

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いまさらながら東京五輪誘致の滝クリのスピーチに思ふ [NEWS]

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たまたま今朝の朝日新聞の投書欄を読んでいたら、例の東京五輪誘致のスピーチの中で、滝川クリステルが「お・も・て・な・し」といってから合掌したのを「あれ何かヘンじゃね? いまどきの日本人、合掌なんて〈いただきます〉のときしかせんだろう日常生活じゃ」的な指摘をしている人がいた。

なるほど、確かにオレもあれは何かヘンだなーと思っていたのだった。

つまり、「日本人にはよそからマレビトを歓待しようという精神がビルトインされているのだよ」という売り込み方は、まぁそういうのはアリかもしれないと思うのだが、「合掌スル」というのは、なんつーか、もうひとつランク上の「心から有り難いと思う・感謝したい・場合によっては平伏してでも」というニュアンスがある。

「遠いところからよう来なさったなぁ、ゆっくり休んでケレ」みたいなホスピタリティがあるからといって、別に「ありがたやありがたや、あぁもったいなや」みたいに客人に崇敬の念を抱いているワケではないのである。

つまりだな、あのスピーチというのは、その辺の日本人の心情の機微みたいなものがわからない外国人に、「あぁそうか、日本人のおもてなしの精神というのは宗教倫理的な根っこをもっていて、だから合掌というかたちでそういう気持ちを表しているのネ、日本人というのはホント敬虔な人たちなのであるなぁいいなぁ」と誤解させる狙いがあったのではないか。

いや、ここで「誤解」と書いたが、たしかあのスピーチはプレゼン対策に雇った英国人だか何だかに書いてもらったという話もあるので、そのスピーチライターが「日本人ノおもてなしスピリットの象徴っていったら合掌じゃネ?」とか、なんかタイあたりの光景と日本をごちゃまぜにして完全にトンチンカンなことを考えてしまい、ああいう振り付けを指導していた可能性もあるぞ。

ま。その辺の真相はよくわからんけれども、改めて考えてみるに、滝川クリステルだか猪瀬直樹だか知らんが、そういうスピーチの構成には当然日本人の一行もチェックを入れている筈なのだが、誰も「いや日本人はそんなに合掌とかしないから。おもてなしと合掌、ぜんぜん関係ないから」と指摘しなかったワケである。なんつーか、つまり外国の連中に「古き良きホスピタリティをいまに伝える東洋の仏教国」という、いまどき珍しいバリバリのオリエンタリズム的ステレオタイプを抱いていただいて、とにかくも票をとりにいったのではないか。

いいのか、とオレあたりは思うのだ。なんちゅーか、日本文化についてウソをついてまで誘致したいのか。・・・ま、したかったのだろうな。


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たまには「天声人語」に軽いジャブ(笑) [天声人語]

けさの天声人語は、このたびのリニア中央新幹線のルート発表と、JR九州の寝台列車「ななつ星」デビューをひっかけたおはなし。最後のパートを引用してみよう。

▼リニアは名古屋まで1万1500円を想定。ななつ星は3泊4日、2人1室で最高113万2千円。かたや、スピードが節約してくれる時間を買い、こなた、快適な空間とそこで過ごす時間を買う▼移動の手段に徹する前者に、移動じたいを目的として楽しむ後者。ななつ星をデザインした水戸岡鋭治さんの言葉がおもしろい。「鉄道は遅い旅を追求したことが一度もない。これからはいかに遅く、ゆったり走るかだ」(「大人の鉄道入門」)▼予定通りの開業なら生きてリニアに乗れるかどうか。豪華列車には乗ってみたいが、手が届かない。


けっきょく何を言いたいのかよくわからんのはいつものこと。

「社会の木鐸きどり」というこのコラムのコンセプトを生かすのであれば、「狭いニッポンそんなに急いでどこへいく、というコピーもあった。もっとゆとりを大事にして生きたいものだ」とかいってリニアをこきおろすのが正道だと思う。しかし、リニアに対するアンチテーゼとして登場させた「ななつ星」が金持ちオンリーの乗り物であるだけに、そっちを持ち上げるのも「庶民の味方」としてはうまくないなぁ、などと逡巡した結果、何を書けばいいのかわからなくなってしまったのであろう。ご同情申し上げる。

ま、しかし、天下の朝日の「天声人語」を担当するというエライ方であれば、「ななつ星」に100マン円払って乗るのもそんなに難しいことではあるまい。「豪華列車には乗ってみたいが、手が届かない」とか庶民ヅラをせずに、「今度乗ってみよう。楽しみだ」とか何とか言えばよかったのだ。


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『現代オカルトの根源』を読む [読書感想文]

しばらく行方不明だった(笑)大田俊寛著『現代オカルトの根源』が出てきたので読んでみた。いぜん、オウム真理教を準備した思想」とは何であったかを思想史的なポジションから書いた方で、個人的にはとても注目している人である。

で、著者の主張を、以下、俺流に要約してみるか。例によって正確かどうかは保証しない。


現代のオカルトを俯瞰してみると、そこにはブラヴァツキーの神智学に由来する一大潮流がある。どういうことかっつーと、19世紀の進化論以降、人々は昔ながらのキリスト教なんぞ素直に信じられなくなってしまったワケで、そういう間隙をついてある種の人々の欠落感を埋めたのが神智学であった。

つまり、人間というのは実はそれぞれに固有の「霊性」というものをもっており、しかもそれは年月を重ねていく中で「進化」する可能性を秘めている、そういう存在デアル。いってみれば、近代的合理主義が広まる中で、人々は旧来の宗教が語り継いできたようなものをそのまま信ずることができなくなっちまったので、そこに近代的な進化の概念をつぎあわせることによって、新たな信仰の体系を築いたのがブラヴァツキーであった。

で、さらにひとつ言っておくと、こうやって人間の「霊性」は進化する可能性を秘めてるんだが、一方で獣的な方向に退化することもある。進化方向と退化方向の双方向に未来はひらかれており、進化を促すのが神智学の教えであるならば、一方で人間を獣性にひきずりこむ悪の勢力もある。そういう善悪二元論もまた、連中の思想の基本にあるらしい。

というわけで、「霊性の進化と退化」+「善と悪の闘争」みたいなものとして人類史を読み解く思想が誕生したんだが、それがのちのオカルト業界に多大なる影響を及ぼしていく。シュタイナー、エドガー・ケイシー、アダムスキー(笑)、オウム真理教、幸福の科学、みな然り。結論としてはこういう系統の思想はちょっと危ないので注意しましょう、ということであるようだ。



で、ここからが感想。

前世紀末以降のさまざまなオカルトムーブメントを、ブラヴァツキーの継嗣としてくくってしまうというのは、とても面白い見方であると思う。

もっとも、ちょっと強引かなぁと思った点もあった。

本の中にデーヴィッド・アイクという英国のニューエージの人が出てきて、やっぱりこういう系譜の人として紹介されている。この人は「人類というのは、超古代から爬虫類的な姿をしたレプティリアン型宇宙人(!)に遺伝子操作とかなんとかいろいろされて、操られてきたのだッ」と言っているらしい。そこだけ読むと、「なんだリアル宇宙人の介入ジャン」という話で、霊的進化もクソも関係ないような気がするンだが、一方で、「人間の霊的なポテンシャルは実はレプティリアンたちを凌駕している」みたいなストーリーもあるらしく、そういう意味ではどっか善悪二元論的な霊的抗争の枠組みにおさまるのかもしらん、よくわからんが。

ま、それはそれとして、何で強引に感じたかというと、著者自身も本の中で触れているが、この宇宙考古学的な「悪しき宇宙人の介入」というアイデアは南山宏氏なども一時盛んに訳していたゼカリア・シッチンあたりからパクったものらしく、いや、そういう話はそもそもUFOシーンでは既に十二分に語り尽くされたモチーフなので、まぁ何か「霊的側面」みたいなものを貼りつけたところは新しいのかもしれんが、やはりこのアイクという人物は二番煎じの人ではないか、という気がしてくる。ブラヴァツキー/リードビーター/シュタイナー/エドガー・ケイシー/アダムスキー(笑)とかいう綺羅星の如く並ぶメンバーの中にあっては、「何この小物」「埋め草かナ」「場違いじゃネ」的な感想を抱いてしまったのだった。

あと、「進化」みたいなキーワードを霊的世界観にくっつけるというのが近現代のオカルトの或る典型であったとして、いわばそういう竹に木をつぐような無茶な試みがこんなにもうまくいったというのは何なのかという思いもある。たしかに「進化」という近代の意匠をまとうことが有効だったという説明はあるんだが、数十年前から「もはやモダニズムは終わった」みたいにいわれている時代でもあるし、それだけじゃうまくいかんのではないか。

ただ、筆者はもともとグノーシス派を専門とする宗教学者ということで、いわばアカデミズムの人である。そんな人がこういうアヤシイ世界をマジ考察の対象にしたことはとても素晴らしいと思う。

本の中には、例の2012年の「マヤ終末予言」で名を売ったというホゼ・アグエイアスという人も紹介されていて(この人も一連のラインナップの中では「埋め草要員」のような気がするけれども)、何というか、そういうところまで目を配っているのである。「ほんとにおスキなんですねェ」といって著者の肩をたたいて励ましてあげたい、そういう気分である。


現代オカルトの根源:霊性進化論の光と闇 (ちくま新書)

現代オカルトの根源:霊性進化論の光と闇 (ちくま新書)

  • 作者: 大田 俊寛
  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 2013/07/10
  • メディア: 新書



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2020東京五輪決定 [NEWS]

というわけで、56年ぶりに東京でオリンピックをやることになったようだ。

で、みんな「経済効果ウン超円」とかいって喜んでるんだが、これはそういうものなのか?

古くは1976年のモントリオール五輪であったか、五輪開催で自治体財政が悪化してしまったという話もあり、それもあってロサンゼルス五輪なんかは「持ち出し」を怖れて「民営化路線」に踏み切った、のではなかったか。いや、じっさいに2004年のアテネ五輪とかは、マジでこれがギリシャの財政危機のひきがねになった、という説もあるぞ。

当面ゼネコンとかにガンガンカネが流れるンかもしれないが、祭りのあとは、さてどうなるんでしょう、みたいな懸念がある。

ま、もちろんこういう国際的イベントというものには何かしら「ゼニカネ」を超えた意味がある、という面もあるにはある。確か松本健一氏は、この前の1964年の東京五輪は日本が大きくかわる転換点としての意味があった、みたいなことを言っていた。あるいは1970年の大阪万博なんてのも、今からみれば「栄光の高度経済成長のピーク」みたいな時代相を象徴していたような気もするしな。

さて、では今度の東京五輪は何を残し、どんな意味づけを与えられるのか。いずれにせよ7年後の話ではある。


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汚染水がダラダラ漏れだしている件について [NEWS]

福島第1原発はいぜん汚染水の処理で苦吟しているらしい。

そういえば、一昨年の4月のエントリーにこんなことを書いていたんだった。

ダラダラと冷却しダラダラと汚染水が流れ出る、そういう状況が(いささか切ないことですが)しばらく続いていくことでしょう


そのころはせいぜい2年3年のことではないかと思っていたんだが、そんなに甘くはなかった。

あと5年か10年か。世の中というのは快刀乱麻でスッキリ、という風にはなかなかいかない。
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ロジクールは修理ということをしないらしい [PC]

ロジクール製の「Driving Force GT」というハンコンを一昨年6月に買ったのだが、壊れた。

gt.jpg

ACアダプダーを装着すると、「通電しました」ということなのだろう、ハンドル部がいったんグルグル回転するのが通常の動作なのだが、これが一切動かない。一方で、USBケーブルをPCに接続してもPC側で認識しない。電源とUSBを両方接続するとハンコンのホーン相当部の白いライトが点灯するので、通電自体はしているようだが、あとは全然反応なし。保証期間は1年。ならば修理を頼むしかない。

サポートに連絡してみた。で、最終的にはこういうメールが返ってきた。

恐れいりますが、弊社では有償、無償に関わらず修理を承っておりません
保証対象とさせて頂ける場合、製品の交換として対応させて頂いております。

購入日を確認させて頂けない場合、保証期限が過ぎてしまった場合、
保証対象外のケースの場合の故障に関しては
ご提案が、再度の新規の購入のご検討のお願いとさせて頂いており
恐れ入りますが、ご理解頂ければと思います。

つまり1年の保証期間が終わったら、壊れても直したりできないからヨロシクということである。

確かロジクールは「保証期間中に製品が故障したら新品と取り替えます」というポリシーを取っている。実際にマウスとかでは3年保証をしていて、これで実際に故障したマウスを取り替えてもらったこともあり、「けっこう太っ腹ジャン!」と感心した記憶もある。

しかし、それは同時に「ウチでは修理ということは一切しませんから」というポリシーと表裏一体でもあるようだ。つまり、保証期間が過ぎてしまえばもう直す手だてはないということでもある。「保証期間過ぎて壊れたら諦めて捨ててネ」。そういうことである。

ふむ、人件費かけて修理するなんてことイチイチしてたらコスト高くなって仕方ねえよ、というロジックはわからんではない。が、たかだか2年ばかり使って壊れてしまったハンコンを捨てるしかないというのはどっか釈然としない。

もちろん「もったいない」精神などというのは、まぁもともと外資の会社なんかにゃワカルわけないとは思うのだが、しかし。大袈裟にいえば「昭和は遠くなりにけり」デアルorz

【追記】

とはいえ、粗大ゴミに出すのもシャクなので、何とか復活させられないかと考えてみた。電源をつなぐとハンドルがグルグル回転する予備動作をするのが正常なのだがこれが無くなってしまったこと、USBケーブルをつないだ時のみ中央のGTボタン部のライトが点滅すること等々を考えあわせ、一番単純な解釈として「ACアダプターが壊れた」という可能性に思いいたる(USB接続してもPCが認識しないというのは、チト違う故障を示唆しているような気もするけれども)。

で、ググってみた結果、「UI318-24」というACアダプターが代替品になるようだったのでネットで注文してみた。はたしてどういうことになるか。

【さらに追記】

ACアダプタが届いたので、改めて接続。ハンドル回転アクションが発生せず、USBも認識してないようだったのでやっぱり駄目だったかなーと思いつつ、ハンドル手動でグルグル回したり、電源&USBケーブルを抜き差ししてるうちにパワーオン。改めてドライバをインストールしたら復活した。何が悪かったのか見当がつかぬが、結果オーライ。

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小林朝夫『本当は怖ろしい漢字』を読む~その4 [小林朝夫さん]

小林朝夫サンの創作字源シリーズであるが、今回は

「県」

である。例によって引用してみる。

古代中国においては、自分たちの「県」を守るために、他の県との争いが絶えなかった。

  (中略)

そんな中、隣県との戦争に勝利したある県の長が、二度と自らの県を襲ってこぬよう、部下達に残虐な命を与えた。 「相手の兵士の死体から、一つ残らず首を切り落とせ」 こうして、戦争に敗れた県の兵士の亡骸の首は次々に切りおとされた。

  (中略)

長の指示はこれにとどまらない。部下たちは、さらに首を逆さまにして木の棒を突き刺すように命ぜられた。

  (中略)

「県」とは、「首」を逆さまにして、そこに「一本の棒」を突き刺した形を表している、怖ろしい漢字なのである。

今回の朝夫説も部分的に正しいところはあるんだが、ほとんどがトンデモである。以下、例によって白川静先生の『字統』などに拠って解説させていただこう。

「県」の元の字は「縣」である。で、「縣」という字は「県」と「系」というパーツにわかれるのだが、「県」というのはもともとこの下側の「小」の部分が「巛」になった字で、つまり逆さまにされて髪の毛が「巛」みたいに垂れ下がっている首、を示していたのだった。つまり、朝夫も正しいことを言っているというのは、「県」とは逆さまになった「首」である、という点にかぎってのことである。

ところがあとは全部ダメ。

話をもとに戻すと、「縣」の字のもうひとつのパーツである「系」というのは、木の枝などにかけるヒモをいう。そうすると「縣」全体では「木にヒモで吊された生首」という意味になる。で、それがいつのまにか「上のほうからかけてぶらさげる」という意味に転じた。同時に「懸」の字を用いるようになって、今では「懸ける=ぶらさげる」という表現をみんな使っている、という次第。

では「縣=県」の字がなぜ行政単位のことも示すようになったか、については定説がないようなのだが、一説に、諸侯が争っていた時代、敵将をたおした者はその土地の住民にむけて「わかったか、これからこの一帯はオレのものだからな」という意味で当地の首領の生首をつるしてみせたから、という説があるらしい。その支配地域=県になった、という話だな。


さて、ここから朝夫の珍説の検証にもどる。

まず明らかにヘンなのは、「県」=「さかさまになった首の字」+「たての棒」というロジックである。これは上に述べたような漢字の成り立ちからいって、「一本の棒」なんてものは全然関係ないのでウソである。

あと、これは根源的な疑問なのだが、およそ文字などというものは多くの人に認知されることによって発生するものであろう。つまり、「え、何でこの字がそんな意味になんのよ?」という素朴な問いにたいして、「いやそれはかくかくしかじかで・・・」といって、それなりにリクツが通って、それではじめて文字はみんなに認められていくんではないだろーか。つまり、「たまたま或る地方でおきた一回限りの偶発的な事件が、ある漢字の成り立ちを決めてしまう」というようなことは多分ないと思うのだ。

となると、朝夫説が成り立つためには、「ある時代の中国では相当に広い地域において、殺害した敵の兵士の首を全部切り落としては棒に刺す風習があった」と仮定せねばなるまい。しかしそんな話があるんだろうか?
朝夫は、勝った連中は木の棒のささった生首をひきずりながら町を示威行進した、とシュールなマンガみたいなことまで書いているんだが、そんなものひきずって歩いたら10メートルもいかないうちに首はとれてしまうのではないか、などと余計な心配までしてしまうぞ。そんな妄想めいたストーリーよりは、まだ「みせしめに吊された敵将の生首」みたいな説明の仕方のほうが百万倍説得力があろう。

ま、もちろん「県というのはさかさまになった生首」ということでいーじゃん、あとは全部ウソだって、という方もおられるだろうが、この男が「むかしは国語塾の人気講師だった」とかいって威張っている以上、そういうインチキを許してはいけないと思うのだった。


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小林朝夫『本当は怖ろしい漢字』を読む~その3 [小林朝夫さん]

ここまで見てきたように、この本における小林朝夫サンの話法というのは、或る字義解釈にかんして言われていることをヒントに、話を1万倍ぐらいに膨らませて話を面白くする、というものである。

今回もまた、そのパターンが如実に表れている事例として

「民」

という字についての彼の説明をみてみよう。

古代文明において、奴隷の労働力は必要不可欠であった

  (中略)

しかし、歴代の王たちは奴隷の扱い方に悩んでいた。足に鎖をつけて逃げられないようにすれば、鎖が足を傷つけてしまい、かえって労働力が落ちてしまう。また、手錠をかければ当然うまく物が運べない。

  (中略)

ある日、王が忠誠心の強い側近に、どうすれば奴隷をうまく飼いならせるかと相談したところ、側近はこう答えた。

で、どう答えたかというと「奴隷たちの片目をつぶしなさい。自分は右目が見えないのだが、簡単な作業ならできるし、走ろうとしても視界が狭くてうまく走れない。相手の攻撃が見えないので戦う気力も起こらないよ」。で、

次の日、奴隷たちの鎖は早速外された。その代わり、右目が見えなくなるよう、針で一人ずつ目を刺された。

とまぁ朝夫サン、見てきたようなことを書いている。まぁいいや。例によって白川静『新訂 字統』が「民」についてどう書いているか見てみよう。確かに

目を刺している形。一眼を刺してその視力を害し、視力を失わせることをいう。

とある。頭の弱い方は「なるほど小林センセイの言う通りじゃないか」と早合点してしまいそうだが、しばし待たれよ。白川先生はこんなことも書いているぞ。

古代には異族の俘虜などが奴隷化されることが多いが、それは神の徒隷臣僕として、神にささげられるもので、そのとき障害を加えることがあった。のちその語義が拡大されて、新しく服属した民一般をも、民といった。

民の起源は、もと神につかえるものとして、その目を突き刺して視力を失った者である。楽人などもみな瞽師(引用者注:盲人の楽師のこと)であった。

おわかりだろうか。

古代の国家では祭祀というものはとても大事なものであって、神に奉仕する奴隷みたいな人々が必要だった。そこには「神にはべる役目を果たすには、ある種の身体障害をもった、たとえば盲人がふさわしい」みたいな観念があったのだろう。この辺、日本のイタコに盲目の人が多かったことを連想させたりもする(もっとも目の悪い人だってできる職業として彼女たちはイタコを選ばざるを得なかった、みたいな見方もできようが)。

で、そういう盲人=神に仕える者をどうやって調達したかというと、捕まえた異族を連れてきて、その人間の目をつぶして奉仕させる。そういう仕組みがあったからこそ「服属して目をつぶされた人」=「民」という漢字が生まれ、のち、別に目をつぶされてなくても「服属した人」であれば「民」ということになった、そういう話だったのである。


さて、こうやって真相がわかったところで改めて朝夫サンの文章を読んでみると、やっぱり話を作ってしまっていることがわかる。

朝夫サンは「奴隷をおとなしく働かせるにはどうしたらいいか、困った困った」と悩んでる支配者が、「ああそうだ、片目をつぶせばうまくいくじゃん」ということで奴隷たちの片目をつぶすシステムを作り出しました、そこから「民」という字が誕生したのです、というストーリーを展開している。

が、「民の字はもともと人の目を刺してつぶすさまを表現している」というのは正しいとしても、そのあとのエセ歴史小説みたいな部分は全部創作なのだった。では古代中国の奴隷というのは揃いも揃って隻眼だったのか? だいたい「片目をつぶされたら走るのが難しくなるので逃げようとしなくなる、戦えなくなる」なんてリクツが成立するだろうか? 映画「ニューヨーク1997」では隻眼のカート・ラッセルが大暴れしてたが、あれはどうなのだ(笑)。

というわけで、やっぱり白川説の「神に仕える奴隷」に限っての話と考えないと、実にトンチンカンな話になってしまう。ま、いつものことではあるのだが、字典を斜め読みしたぐらいでこんな本をでっち上げようとすると、やっぱりボロが出てしまう。



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