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引越完了ス [あとらんだむ]

というわけで、liveboorブログに完全に引っ越した。

…ま、こういう辺境ブログに好んで通ってきててブックマークしてるような奇特な方は、まぁ全国広しといえども二人か三人ぐらいいれば御の字であるからあんまり意味があることではなかろうが、ともかく引っ越しをしたら郵便局に転居届けを出すのが社会人のたしなみであるように、ココに改めて転居先を記しておくのも大人の礼儀というものだろう。

http://macht.blog.jp/

ま、こっちもほっといても当面消えたりしないと思うので、そのままにしておくけれども。
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神戸拓光選手 [あとらんだむ]

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以下はこの夏、ネットでもちょっと話題になった話なのだが、備忘録的に書いておこう。

最近「スポーツ選手を鍛えるのに暴力はダメだろう」という風潮が広まってきているんだが、「そんなことないだろう」というのがオレの持論である。スポーツの世界の最先端をいく連中は多くの場合、もう半分人間を超えた猛獣みたいな連中であって、力づくでムチをいれて鍛えないとトップを疾走できないのではないか、「スポーツ選手に手を挙げるな」みたいな甘ったるいヒューマニズムを超えたところで連中は死ぬか生きるかの切磋琢磨をしてんではないかと思うのである。

言い換えてみれば、基本的に一流のスポーツ選手というのはリクツの通らない「反理性」の世界に生きている。もちろんプロ野球選手のなかにも「体罰反対!」とかいっている桑田真澄みたいな知性派がいるわけだが、彼の場合はプロ選手としては恵まれない体格をカバーするために頭脳方面が異常に発達してしまった特異な選手だとオレは思っている。あるいは400メートルハードラーの為末氏なんかもその系統か。

と思ってはいるんだが、しかし、ここでたまたまツイッターか何かで知った人物のブログを読んで驚いたことを白状せねばなるまい。千葉ロッテマリーンズの神吉拓光なる選手がブログに書いている「茜雲」なるエントリーである。内容はといえば、例の1985年の日航機墜落事故について書いたものなのだが、彼はたまたま大学時代に興味をもってこの事故を調べ始めたらしく、そうしたプロセスの中で感じたことどもをこのエントリーでつづっているのである。

詳細はここでは触れぬ。が、ともかくそれは全然「野獣派のアスリートの咆吼」などではなく、人間に対するやさしさ、愛情に満ちた、きわめて高度の知性を感じさせる表現であったのだ。神戸選手は身長191センチ・体重98キロという大男らしく。オレの説によると、こういうスポーツ選手は天賦の才にめぐまれた「筋肉バカ」であるはずなのだが、全然違うではないか。

いま思うことは、こういう心優しき人間に超一流選手になってもらい、オレの仮説を完膚無きまでに否定していただけたらオレはむしろ嬉しいぞ、ということである。

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『カネを積まれても使いたくない日本語』というものはあるか [あとらんだむ]

内館牧子著『カネを積まれても使いたくない日本語』というタイトルの本が出ているようだ。読んだわけではないのでナンだが、おそらくは日本語の誤用を厳しく糾弾する本で、たぶん編集者あたりが「センセイ、やっぱ書名もインパクトないと駄目なんで『カネを積まれても…』みたいなのにしましょうヤ」と押し切ってこんなタイトルをつけてしまったものだろう。

事情はワカル。が、やっぱり下品な書名ではある。

「日本語をどう使うか」なんていうのはカネをもらえるからとかナンとかいう話とはそもそも関係がない。ある用法が、その人の言語感覚に照らして「オカシイ」とか「奇妙」とか「醜い」とかそういう理由があれば避けるし、そうでなければ使う。それだけの話。

しかるにこういう下品なタイトルをつけてしまうと、「おぉそうかそうか内館サンという人はひょっとしたら基本的にカネで動くタイプの人なので、こういう発想をしてしまうんだろうネ」と邪推されるのではないか。でもたぶん内館サンはそんな人ではないだろう。版元は朝日新聞出版のようだが、やっぱり三流出版社のようなアコギなマネをしてはいけなかったのである。

いや、しかしちょっと待てよ。

さっき、たまたま月刊誌の『潮』を開いていたんだが、この雑誌の座談会とか寄稿にはよく公明党の話がでてきて、一流の学者とか評論家のセンセイが「自民党の暴走をおしとどめるためにも、連立与党の公明党の役割は重要である」みたいなことを言うくだりが必ず出てくる。それもほぼ毎号、お約束のように。

皆さんご承知のように、この雑誌は創価学会系の潮出版社が出している。巷間伝えられるところでは原稿料とか対談謝礼とか、かなりお高いという。つまりナンだ、この雑誌に登場するエライ先生方は、ある意味、言葉遣いみたいなレベルとはまたちょっと違うけれども、「カネを積まれて」勧進元のキタイする「日本語」を語ってくれていると言えないこともないんではないか。

もちろん「自民党の暴走をおしとどめるためにも、連立与党の公明党の役割は重要である」というのは基本的に正論であるから、識者の皆さんも別にカネを積まれて節を曲げて思ってもいないことを語ってるワケではないンだろうが、ま、少なくともそういうところに阿吽の呼吸というものがあるのは確かだ。

で、話はもとに戻るんだが、ひょっとしたら『カネを積まれても使いたくない日本語』という本も、正しい言葉遣いみたいな話だけではなくて、その辺の言論・出版界の機微にまでツッコミを入れているのであろうか? それであればここでいろいろ書いたコトも全部的外れになってしまうので謝らねばならないのだが。さて、どうなのでしょう?



カネを積まれても使いたくない日本語 (朝日新書)

カネを積まれても使いたくない日本語 (朝日新書)

  • 作者: 内館牧子
  • 出版社/メーカー: 朝日新聞出版
  • 発売日: 2013/07/12
  • メディア: 新書



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アイ・ジョージ [あとらんだむ]

アイ・ジョージという、とても歌唱力のある歌手がいた。いや、まだ亡くなったという話はきかないから存命であるのかもしれない。

で、ふと思い出したのだが、この人が「民族の根っこには伝統的なリズムがある」というようなことを言っていて、「おぉなるほど」と思った記憶がある。「徹子の部屋」か何かで聞いたような気がするが、よく憶えてはいない。

オレが記憶している限りでいうと(いまとなっては本当かどうかアヤシイものだが)、たとえば日本人というのは二本足の鳥のようなもので、つまり二拍子のリズムが骨の髄までしみついている、と彼はいうのだった。言ってみれば「イチニ、イチニ」「よいしょ、よいしょ」という、いわば鍬か何かをふるって農作業をしている時のリズムがどこか基本的なものとして身体にビルトインされている、という話である。

これに対して西洋人は四拍子だったか、三拍子だったか、ともかく二拍子ではないリズムを基本に生きているという話だったような気がするのだが、もともと音楽の素養のないオレなので、その辺はよく憶えていない。ともかく民族のベースになる拍子が日本人の場合は二拍子である、というのがキモなのである。

武智鉄二のナンバ歩きにまつわる議論ともどっかで重なるような気がするのだが、ナチュラル・バイブレーションっつーか、我々の身体を根源的なところで縛っているリズムがある、っつー感覚は、けっこうするどいのではないか。と同時に、なんかちょっとアヤシイ雰囲気を漂わせていたアイ・ジョージはどこにいってしまったのだろう、という思いが心中にきざしたりもする。

聖書の好きなところ [あとらんだむ]

オレは、まぁ若干破戒に傾斜しているとはいえ一応仏教徒だという自覚はあって、「一切皆空」とかいわれると「まぁそうだよなー」と思うような人間であるんだが、たまに何となくパラパラと聖書(新約デス)をめくったりするようなことも、ま、ないではないのだった。

もっとも、その読みは基本的に懐疑的である。「いくらなんでも刑死したオッサンが墓場から甦るわけないジャン。だいたい甦ったあとの事績がいろいろ書いてないのが不自然だよなー。この甦ったと称する男が本当にイエスと同一人物だと言い張るんだったらサ、いろいろ問い詰めてリアルなトコ証言してもらわにゃ納得いかんよなー。自らを捨てて人間の罪を背負ってくださった、みたいなとこまで言うからにゃあ、もっと検証せにゃいかんでしょ。それが全然ないじゃん」みたいな、つまり異教徒丸出しのボートクすれすれの読み方しかできないのである。

いや、しかし、よくわからん文句が並んでいる聖書のなかで、ときおりキラリと光るフレーズを発見することもある。たとえば次のようなところ。


イエスはそこを去って故郷にお帰りになったが、 弟子たちも従った。安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた。多くの人々はそれを聞いて、 驚いて言った。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような 奇跡はいったい何か。この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの 兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」このように、人々はイエスにつまずいた。 イエスは、「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」と言われた。 そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことが おできにならなかった。そして、人々の不信仰に驚かれた。それから、 イエスは付近の村を巡り歩いてお教えになった。(マルコ6:1-6:6)



イエスはこれらのたとえを語り終えると、そこを去り、故郷にお帰りになった。会堂で教えておられると、人々は驚いて言った。「この人は、このような知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう。この人は大工の息子ではないか。母親はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。姉妹たちは皆、我々と一緒に住んでいるではないか。この人はこんなことをすべて、いったいどこから得たのだろう。」このように、人々はイエスにつまずいた。イエスは、「預言者が敬われないのは、その故郷、家族の間だけである」と言い、人々が不信仰だったので、そこではあまり奇跡をなさらなかった。(マタイ13:53-13:54)



つまり、イエスが故郷に戻ってきたところ、その辺のオヤジが「おや、アイツ、大工のヨセフんとこのガキじゃね? なに気取ってんだヨ」的なツッコミを入れたというのである。するってーと、流石のイエスもたじたじである。「いやあ、預言者っつってもネ、故郷とか家族のいるとこじゃフツーの人になっちまうんだよねー(ポリポリ」とかいって、実際に「奇跡」も起こせなかった、という話なのである。

このあたり、実に真理をついているッ! つまり、なんか教団を立ち上げることに成功したカリスマであってもね、「あのさー、偉そうなこといってっけどさー、アイツ角のたばこ屋のせがれの定坊でしょ? オレ、アイツのおしめ替えたことあるんだよねー(笑)」的な、もう絶対的に彼の弱いところを握った人間に対しては、もうカリスマは通用しないのである。いくら天下のイエスであっても、はなから「角の大工ンチの小せがれ」だという風に見る人間に対しては全く無力なのでアル。

言ってみりゃ、聖書はここで宗教の幻想性というものをはからずも露呈させてしまっているのである。信じ込ませりゃ相当なことはできる。でも、しょっぱなでツカミそこなったら全然ダメ。

そしてこういう聖書のワキの甘さが、オレはとてもスキである。もちろんちゃんと勉強した聖書学者のセンセーは、この辺も違う解釈をされるんであろーが、ナニ、読み方は勝手である。そして、そういう読み方ができるから聖書いいよネという人間の出現をも肯定しているからむしろ聖書はエライということもできるのだね。
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村上春樹がキライなのは何故なのか考えてみた(笑) [あとらんだむ]

また村上春樹がさんざっぱらティーザー広告で引っ張ったあげくに小説を出したというのだが、それも午前0時から販売しますよなどというバカな本屋まで出現したものだからバカが夜中に行列つくるありさまで、もうほとんどWindosXPとかiPhone発売の世界である。

・・・などと毒づいているのはオレがこの男を嫌っているからで、たとえば外国の催しとかに呼ばれるとホイホイ出かけていって講演なぞするのだが、国内では公の場に全然出てくることもなく、だからこんど公開インタビューを日本でやるらしいのだが、それがあんまり珍しいことだからニュースになってしまうほどである。

小説を買って読んでくれ、そこに全部書いてある、それ以上のことは言わんから、というつもりなのだろうが、では何で外国だと聴衆の前で講演したりするのか全然説明がつかんし、ハワイあたりの大学で講義なんかもしてるというではないか。オレとしてはこれは「バカな日本人どもは黙って本買ってりゃいいんだよッ!」というメッセージであり、でも何故か毛唐には好かれたいという歪んだ植民地根性のあらわれではないのかと疑っている。なんだ偉そうなこといってもその程度かヨ、というワケでこの男は嫌いである。

というか、よくよく考えると、オレも昔「ノルウェイの森」か何か買って読んだことはあって、つまり基本的にこの男の本は読んではいないのだけれども、たまさかそういう機会にこの男の小説世界に嫌悪をもよおしたという事実がないわけではないのである。(追記:あ、そうだ、そういやこないだ読んだ『1Q84』もこの男の本であったな。これはオレ流ユーフォロア的視点からすると失敗作である、というのは前に書いたw)

で、この男の小説じたい好きになれないのはいったい何故なのだろうと思うのだが、たとえばたまに読む西村賢太の哀れを誘う世界が実に心に染みいってきて、「あぁこれは良いなぁ」とシミジミしてしまうオレの感性からすると、「やれやれ」とかいって女の子とこじゃれた会話を楽しんだ末に××しちゃったり○○しちゃったり、スパゲティを茹でながらビールを呑んだりバーボンか何かをあおったりとゆー、一見苦悩なんかしちゃってんだけど結局ソイツは勝者の余裕じゃネ?みたいな彼の世界に根源的な憎悪を抱いてきたからではないかと思い至るのだった。

そういえば、と思い出すわけだが、遠い昔、オレにも田舎から東京に出てきて木賃アパートで生活していた青春時代というものがあった。根がクライし人見知りなので、友人なんかできないのだった。ましてや彼女なんて。14型か何かのブラウン管の赤い小型テレビと、食費をケチって生協の本屋で割引で買ってくる本だけが寂しいオレの相手をしてくれるのだった。で、たまに早稲田あたりの名画座に行って夢中で映画を観たりしたンだが、あれなんかも孤独を癒してくれたのだなぁ今おもうと。ソフィー・マルソー。クリスティ・マクニコル。心の恋人であった。

もひとつ、たまに人と話をすることもないではないのだが、それは何かというと、隣室に住んでいる土方のオッサンが「ちょっと呑まない学生さん?」とかいって来るので、まぁ断るのも悪いので行って酒盛りをするのだった。

ま、それはそれでいいんだが、このオッサンはどうも分裂病を患っているようであった。「実はオレ、むかし佐藤栄作の娘とイイ仲だったんだけどなあ、仲を裂かれて今じゃこんなありさまよ」。酔うとそんな妄想を繰り返し繰り返しオレに語って聞かせるのだった。酒は焼酎か安い日本酒をそそいだコップ酒。つまみはサバ缶。みたいな。なんだよあのオッサン!とか内心毒づきながら、実はそれが「癒し」になっていたんじゃねーかと思われるフシもあるのが哀しい(笑)。

いやいや、つい誰もききたくないツマラン昔話をしてしまったが、つまりはそういうことである。気取るんじゃねーよ村上春樹。才能があるのかなんか知らんが、偉そうに格好つけて肩で風切ってるヤカラはどうにも許せねえ、ただそう言いたかっただけなのである。嫉妬というやつなのだろうな。わかってはいるさ。



【追記】

なおその後、なんとなくウィキペディアで「村上春樹」の項を眺めていたら、小谷野敦の弁として次のようなことが書いてあった。孫引きさせていただく。

巷間あたかも春樹作品の主題であるかのように言われている『喪失』だの『孤独』だの、そんなことはどうでもいいのだ。(…)美人ばかり、あるいは主人公の好みの女ばかり出てきて、しかもそれが簡単に主人公と『寝て』くれて、かつ二十代の間に『何人かの女の子と寝た』なぞと言うやつに、どうして感情移入できるか。
  *原典は「『ノルウェイの森』を徹底批判する−極私的村上春樹論」『反=文藝評論』(新曜社)とある

若いころもてなかったことで有名(?)な小谷野敦ならではの主張(笑)であるが、そう、オレの言いたかったのはたぶんこういうことなのである。



【追記の追記】

なお、その後、ドリーさんと名乗る方が『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』について書かれたアマゾン・レビュー「孤独なサラリーマンのイカ臭い妄想小説」が大評判になっていると知り、読んでみたのだったが、実に共感できる内容であった。(2013/05/06記)


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去年今年貫く棒の如きもの [あとらんだむ]

高浜虚子の有名な句である。

が、オレのこの句にたいする解釈はいささか品のないものである。

正月元旦。アサいちでクソをした。実に、太い見事な棒状のものである。

去年喰ったものが、ことしクソになって出る。

まさに年越しをぶっとい棒状のものが貫いた。あぁ愉快愉快。そういう句として読んでみたいものである。



呪われしものの書~その3 [あとらんだむ]

たとえば「家」とはなんだろう?

家なのかそうでないのか何ともハッキリしないものがあるとしよう。さて、それが一体どちらなのか、判断の基準を明示してどちらかであると判断を下すのは不可能なことだ。

もし人が住んでいる納屋があったとしたら、それは家=ハウスである。だが、もし「何ものかが住んでいるのが家だ」というのなら、どんな構造をしていようと関係はないのだから、鳥の巣でさえ家になってしまう。「人間が住んでいるかどうか」というのも照らすべき基準とはいえない。なぜなら、われわれは犬の住むところでさえ「ドッグ・ハウス」というのだから。建築材で出来ているのが家、ということもできない。なぜならわれわれは [氷でできた] エスキモーの家を「スノー・ハウス」というのだから――貝はヤドカリのための家であり、さかのぼっていえば、それはもともとその住み家を作り出した貝じしんの家でもあった。ワシントンのホワイトハウスと浜辺の貝のように一見してあまりに違うもの同士であっても、家であるという点においては連続性をもっているもののようにみえる。

これと同様に、たとえば電気についても、それが何であるかを言い表すことのできる人間はいない。それは「熱」とか「磁力」とか「生命活動」といったものとハッキリ分離できるようなものではない。そう、哲学者や神学者、生物学者たちは、それぞれに「生命」を定義しようとしてきたが、そうした試みも失敗してきた。なぜならハッキリとしたかたちで定義できるものはそこにはないのだから。実際のところ、およそ生命にまつわる現象というのは、化学や電磁気学、天体の運行といった場にも姿を現わしてしまうものなのだ。

濃紺の海に浮かぶ、真っ白なサンゴの島々を考えてみよう。

一見したところでは、それぞれの島は異なってみえる。見たところ、それぞれには個性があるようであり、ハッキリとした違いがあるようにみえる――しかし、それらはすべて同じ海底から突き出すようにして存在している。海と陸との相違というのもハッキリしない。海が満ちているところに陸地が生じることもあれば、土地が広がっているところに水に満ちた場所が生じることもある。

そういうわけで、もし万物が相互に地続きになっているものであるならば、或るものが「そう見える」からといって、それが見たままのものであるとは限らない。テーブルの脚であっても、もしそれが何かよそから投影されて在るものだとしたら、単なるテーブルの脚以上のものである。もしわれわれが物理的な意味で環境とひとつながりの存在だとしたら、あるいは精神的な意味で、われわれが環境とのかかわりを離れて何事かを表現することなどできないのだとしたら――われわれがふつう言っているような意味での「現実世界」に生きている人間など一人もいない。

さて、われわれがここで言っていることは二通りに捉えることができる。

ひとつは「伝統的な一元論」としてのそれ。そして、もうひとつはこういう意味合いのものだ――固有のアイデンティティをもっているようにみえるあらゆる「事物」は、どこか見えないところにあるものから投影された島々のようなものに過ぎず、詰まるところ自他を区別する確固とした境界線など有してはいない、ということ。

こうした「事物」はどこからか投影されたものに過ぎない。にもかかわらず、それらは「どこかに隠れているもの」――それは個々の事物が固有のアイデンティティを有しているということを決して認めようとしないのだ――から必死で我が身を引き剥がそうと試みる。

そうやってすべての事物が互いにつながりあった関係を頭に浮かべてみる。そこではすべてのものがそれぞれに違いをもっているようではあるが、それらが目指しているのは畢竟ひとつの目標である。つまり「自己を他から引き剥がして確固たる実在を手にいれること」である。それは「実体をもつ自己」「確固たる自分」「他との境界をもつ存在」「揺るぎなき独立」を得ることであり――あるいは、それを人間にまつわる言葉を使って言えば「個性」や「魂」を立ち上げることだ、ということもできよう。

自らをリアルなもの、肯定しうるもの、あるいは絶対的なシステム・支配するもの・組織・自己・魂・実体・個人性をもつものとして立ち上げたい――そのように考えるものはすべて、まずは自らの周囲、自己を形作っているものの周りに輪郭線を引き、次いであらゆる自己ならざる「もの」を排し、放逐し、あるいはそこから遠ざかっていくことによってのみその試みを成就することができる。

もしそのようにできなければ願いが成就することなどありえない。

だが、仮にそのように行動できたとしても、それはあらかじめ失敗が宿命づけられた悲惨な行動たらざるを得ないのだ。それはあたかも海面上に円を描きながら「円の中に立ち騒いでいる波というのは、円の外側にある波とは全然無関係だ」といっている人物(むろん内側と外側の波はつらなっているわけだ)、あるいは「認められたもの/否定されたものは劃然と区別可能なのだ」と真剣に説いている人物のふるまいにも等しい。

新島八重さん [あとらんだむ]

NHKの大河ドラマというのは何か苦手で全然みてないのだが、「八重の桜」というのをやってることは知ってる。

で、主人公・新島八重を綾瀬はるかが演じているということも。が、何か違和感があるのは、やっぱり写真の残ってる実在した人物を天下の美人俳優が演じるときの嘘臭さなのだった。で、ふと思ったのだが、彼女は山口敏太郎氏に似ているのではないか。いやリアリズムで演じてても誰も見ないだろうという大人の事情はわかるにしても。

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呪われしものの書~その2 [あとらんだむ]

冒頭部の超訳その2です。


従って、私は、「呪われしもの」という言葉を「追放されたもの」という意味で使っている。

だが、追放されたものという言い方には、それがいつの日にか「その場に居残るもの」に転ずる可能性もあるはずだ、という思いを込めている。

こんな風に言ってもよい。今日はここに残されたものであっても、明日どうなるかはわからない。

そして今日放り出されたものが明日になればこの場にある、ということもありうる――もちろん今日放逐されたものが、未来にあってもやはり放り出されている、ということもあるだろうけれど。

われわれとしてはこう言ってみたい。「いまここにない」と「将来においても存在しない」のはざまにも――あるいはわれわれの身の回りにある日常的なものと(いけすかない言い方だが)「実存的なもの」のはざま、といってもいいのだが――大いなる転変はあって、それは天国と地獄の間を往還する運動にもなぞらえることができる。つまり、呪われしものが、そのままずっと呪われしものであり続けるわけはない。救済があるからこそ地獄に堕ちることもある。となれば、われわれの呪われし悲惨なるものが、やがて麗しき天使に化けることもあるのではないか。さらに推論を進めていけば、やがてはそのようなものどもがかつて追い出された場所に帰還することもあるのではないか、そう思われるのだ。


われわれとしてはこう言ってみたい。いかなる者であれ自己を立ち上げようとするときには、何ものかを他者として外部に放り出さねばならぬ――つまり、一般的に或るものが「存在している」という状態は、程度の差こそあれ「内にあるもの」と「締め出されたもの」の間に存在する、それ相応にハッキリした相違点が記述されることによって成りたっている。

しかし、実際にはそれほどハッキリした相違点などない、ということもわれわれは言っておかねばなるまい。万物は、チーズを食い荒らしている虫やネズミのようなものだ。ネズミと虫――この二者ほどかけ離れたものはないようにもみえる。ネズミであればこのエサのところに一週間通うのだろうし、虫なら一か月。が、どちらの場合も外からはチーズのようすが変わっていくのが見えるだけ。結局われわれはみな虫かネズミ。そうしたものが食い荒らしているチーズの外側だけが、時に応じて様々な姿をみせるだけの話である。

あるいはこうも言える。赤色と黄色とはまったく異なる色だとはいえない。それは単に「黄色の有する彩度は赤のそれとは異なっている」というだけの話だ。つまり赤色と黄色は連続していて、だからこそ両者が溶け合う領域にはオレンジ色というものが存在するのである。

それではこの黄色と赤色の議論を踏まえて考えてみよう。すべての現象について、赤の要素を含むものを「真」、黄色の要素を含むものを「偽(ないしは架空のもの、でもよいが)」として科学的分類を試みることになったとしよう。するとその境界領域は「偽」だといえるけれども、同時にどちらとも言い難い恣意的な性格も持っていることになる。なぜならオレンジ色をした物体というのはまさにその変移する領域にあるので、事前に設定されたボーダーラインの両側とつながりをもってしまうからである。

こうやって考えていくと、われわれは次のようなことに気づかざるをえない。

つまり、分類すること、内部と外部のものを分けることには何ら根源的な根拠はなく、そうした考え方は「赤色と黄色は区別できる」というこれまで一般的だった考え方よりもむしろ道理が通っているのだ。

科学が自ら喧伝するところによれば、これまで科学は膨大なデータをその内側に取りこんできた。実際、そうでなかったら、科学というのはいったい何をしているのか、という話にもなるだろう。そして、これもまたその喧伝するところであるけれども、科学はこれまで膨大なデータをその外側に放り出してきたのである。さて、もし赤色が黄色との連続性をもっているとしたら? もし「内側にとどめ置くか」「外側に放り出すか」という基準がハッキリした分岐点をもたず、連続性をもっているのだとしたら? 科学は、最終的に受け入れられたものとそれほど変わらないものを外部に放逐するようなことをしてきたのに違いないのだ。互いにオレンジ色の中に溶け合ってしまう赤色と黄色というのは、あらゆるテスト、あらゆる基準、ある種の説が生み出されてくるプロセスを象徴的に示している――。

あるいはこうも言える。「いかなる問題であれ、すべてのものは分類し区別することができる」という主張は、「万物には判断の基準となるような確たる判別のポイントが存在する」という錯誤の上に成り立つ幻想なのだ――。

また、そのように知的思考を用いてものごとを探究する営みというのは、「事実」「物事の根源」「普遍」「法則」「定式」「三段論法の大前提」といったものを見つけ出すため続けられてきたのだった。その結果、これまでにどんな達成があったかといえば、せいぜいが「ある種の事柄は自明である」と言えるようになったことぐらいである。にもかかわらずわれわれは、何やら「証拠がある」と聞くと何かが証明されたのかという風に考えてしまう。

これが彼らのいう「探究」なのである。それは実際には何らかの達成を成し遂げることなどなかったのだが、にもかかわらず科学は、ある種の達成があったかのようにふるまい、支配者として君臨し、宣命を重ね、そしてその意に沿わないものを退けてきたのだった。

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