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小林朝夫『本当は怖ろしい漢字』を読む~インターミッション~ [小林朝夫さん]

小林朝夫サンの『本当は怖ろしい漢字』は信用するに足るか、ということでここんとこ読解作業をしているわけだが、まぁたった2件を調べた段階ではあるけれども、これまでのところで言えるのは「この本はデタラメ」ということであった。今回念のため、その世界の権威である白川静の『新訂 字統』にも当たってみたのだが、「『七』は切腹でハラワタがはみ出した様子を表している」とか「『童』は犯罪を犯した子どもを指す」とかいったようなことは一切書いてない。

確かに「七」は「切」という字の原型であるとか、「童」は刺青を入れられた犯罪者を指すとか、まぁそこら辺は本当のことのようなのだが、彼はそこからイキナリ妄想を膨らませてしまい、「じゃ、この七の曲がったトコは、切ったトコから何か飛び出してる、っつー意味じゃネ? あ、腹切りで飛び出した内臓かYO!」とかいってデタラメな字義を創作してしまうのだった。

で、思うのだが、この人はかつて国語塾の教師をしていたという。自称ではあるが「国語の神様」とか名乗っていたらしく、ま、自分なりに塾の仕事にそれなりの手ごたえがあったのだとしたら、それはおそらくこの本とおんなじ手をつかってガキの歓心をかっていたということなのだろう。

つまり、どうということのない話を百万倍膨らませて面白くする。ガキはとりあえず「おもしれえなー」とかいって関心を示す。じっさい、アマゾンレビューとかみるとまったく疑うこともなくこのデタラメ本を褒めちぎっている人たちがいるワケだし、ましてやそこいらのガキだったら手もなく騙されてしまうのは必定。

しかし悲しいかな、そこで語られていることはウソ八百。つまりこの人は「学ぶ」ということの何たるかを全く知らずに塾講師をしていたのだ。言うまでもない、本当のこととは何か、真実とは何か、そこんとこを誤魔化さないで真面目に詰めていくのが「学ぶ」ということなのだから。

「雀百まで踊り忘れず」というか、この人はそこんとこ未だ全然進歩のないままで、今は「予言者」を気取っているらしい。
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小林朝夫『本当は怖ろしい漢字』を読む~その2 [小林朝夫さん]

さて、「小林朝夫サンの『本当は怖ろしい漢字』のアラを探してみよう」の2回目(おっと勝手にシリーズ化してるがナw)は、彼が本の中で二番目に取り上げている

「童」

の項目を検証することにする。

例によってまずは朝夫サンの文章を引用してみようと思うのだが、彼は厳かにこう宣言する。

元来「童」というのはただの子どもではなく、「悪い子」を表す字なのだ。

ふむ。われわれは「童」というのは単なる「子ども」のことだと理解しているわけだが、「それは違う」と朝夫サンは言い張る。それはあくまでも「悪い子ども」に限って用いられる漢字である、というのだ。で、以下にこんな説明が続く。ちょっと長いが我慢せられよ。

「童」は、「辛」という字と「重」という字を縦に連結させた字で、意味は「辛くて重い」というものになる。

だが、子どもの場合はまだ未来に可能性が残されているので、いきなり死刑になることは少なかったという。

では、罪を犯した子どもをどうしたかというと、誰が見ても犯罪者であることが分かるよう、両目の瞼の少し上の部分に「辛(入れ墨用の針)」で、横長の棒の形の入れ墨を入れ、罪を犯したという刻印を負わせた。

(中略)

つまり「童」とは「子どもの罪人の証」なのだ。

部分的には正しいことも書いてあるようだ。たとえば「辛」という字であるが、白川静博士の『字統』によれば、これはもともと「奴隷や罪人に入れ墨をする道具」だという。それはおそらく確かなことなのだろう。だが、それ以外の部分はほとんどが眉唾モノだ。

とりあえず検索をかけたところ、共同通信社で長年活躍された超一流の文芸記者、小山鉄郎氏が「童」の文字にかんして記した文章がネットにアップされてたので以下にそれを引いてみる。ちなみにこの方は、白川静氏の仕事を紹介する紹介本なども出しておられる。

「童」はもとは男性の罪人を表す文字でした。古代文字形は少し複雑ですが、上から「辛」「目」「東」「土」を合わせた字形です。

犯罪を犯した男性は目の上に入れ墨をされたのです。もともと受刑者を意味する字ですから、奴隷となり「しもべ」の意味にもなりました。

受刑者は結髪が許されず、その姿が髪を結わない子どもたちと似ていたので「わらべ」の意味ともなったのです


つまり名記者・小山鉄郎氏は次のように語っているのである。

むかし犯罪をおかした男は目の上に入れ墨をされた
  ↓
そうした男たちは「童」と呼ばれた
  ↓
ちなみにそうした男たちは髪を結うことが許されなかったので見た目的にはそのあたりの子どもとよく似ていた
  ↓
こんな経緯から、「童」という字は「子ども」を指し示す字に転用されていった


どうであろう。

字形についても朝夫はこれと若干違うことを書いているんだが、ま、その点は措いておこう。問題は、ここには「犯罪を犯した子ども」の話なんて全然出てこないということだ。「悪いことをしたので入れ墨を入れられてしまった大人は<童>と呼ばれておりました」という話がまずあって、で、そういう「童」のザンバラ髪が子どもたちに似ていたので、いつのまにか「童=子ども」という風に理解されるようになりました、単にそういう話である。

いや、そもそも朝夫サンは「子どもには将来があるので、多くの場合は犯罪を犯しても殺さず、入れ墨を入れただけで放免されたのだった」みたいなリクツを展開しているが、だいたい「コイツは前科持ち」という証明の入れ墨をほどこされたガキなんて世間からつまはじきにされて更正もクソもないだろう。

この人間の住む世界には、犯罪をおかしたガキにたいして「まだ小さいから十分更正の余地があるよなー。暖かく見守ってやろう」なんてヤツはほとんどいなくて、「こんなガキのくせに悪いやっちゃなー。用心ならねえ!」という人のほうが圧倒的に多いのである(良い悪いは別にして)。人権意識が高まった今だってそんな具合なんだから、古代中国でそんな入れ墨のはいったガキを放免云々なんて話は笑止千万なのである。この男は「作家」とか自称することもあるようだが、人間というものが全然わかってない。

というわけで、今回もあんまり調べていないので断定的なことをいうのはナンなのだが、少なくともここまでのところで言えることは、こういうことだ。天下の共同通信の名物文芸記者の言ってることを信用すべきか。あるいは淫行で逮捕された経歴をもつ虚言癖のある男のほうを信用すればいいのか、ということだ。

結論は明らかであろう。
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小林朝夫『本当は怖ろしい漢字』を読む [小林朝夫さん]

「関東大地震近し」とか言って人々の恐怖心を煽ったあげく、そのようなデマを信じ込んで接近してきた未成年をかどわかして性犯罪で逮捕され、最終的にはその容疑を認めて釈放された小林朝夫さんであるが、その後も有料ブログを使って「地震近し」とか全く根拠のない「予知」を続けて世を惑わせているらしい。どうもこういう御仁は徹底的に論破してさしあげないと全く反省をしないようである。

で、しょうがないので、その信頼性をチェックするためにこのヒトの書いた書物でも取り寄せて、この人が信頼すべきヒトなのかどうか一回ちゃんとその真偽を明確にしてやるに如くはないと考えた。既に彼の『富士山99の謎』なる本が出鱈目であることは識者によって指摘されているようだが、オレ自身も別の本を調べてやろうではないかと思い立ち、シャクではあるが、100円ちょっと払って小林朝夫『本当は怖ろしい漢字 特別編集版』(彩図社)というのをブックオフで買ってしまったのだった。ま、平原綾香のCDを買うついでだったので、100円ぐらいいーやというノリではあったのだが。

で、届いた本なのだが、いかにも胡散臭いことばっかり書いてある。いちおう参考文献には白川静とか藤堂明保とか、そうそうたる学者の本を上げている。ちゃんと批判するにはこの辺の本にも目を通さねばならんので、実はそういう批判作業というのは大変なのである。またいずれ機会を改めてちゃんとした批評をして差し上げようと思ってはいるが、とりあえず最初の方を読んで明らかに出鱈目というところを発見したので、とりいそぎ報告しておこう。

冒頭の「七」という文字についての項で、彼はこんなことを書いている。

かつて中国では、皇帝の顔に泥を塗るなどの大失態を犯したモノは、生きてはいられなかった。残された道は自害のみ。腹を十字に切らなければならないのだ。日本でいう切腹である。




その際に「十」の形に切った切り口の下の方から血まみれの腸が外に飛び出してしまう。「十」という字に、飛び出た血だらけの腸の形を付け足したものが「七」なのである。


さらに

天に昇った死霊を弔う行事である七夕。亡くなった者を供養する最初の日は初七日。喪に服すのは七日の二乗である四十九日。
このように「七」には常に「死」がつきまとう。



確かに漢和辞典などを見ると、「七」は「切」の源字だというようなことが書いてある。要は、最初「切断する」という意味の文字として使われていたのがのち序数に転用された、という事なのであろう。しかし、いろいろ調べてみたところでは、「七」に「切る」の意味はあっても「切腹」という意味はない。ちなみに「十」に「切腹」の語義があるというソースもオレにはみつけられなかった。

いや、そもそも中国に「切腹」などという慣習があったのだろうか? そこで早速ググってみたところ、確かにそれに似た風習はあったようなのだが、これは「剖腹」といい、「自分の仕える人の死を追って切腹する」ことを意味するらしい。小林サンのいう「罰としての切腹」とは全然違うもののようだ。

というわけで、ここまで調べてみたところでは「中国に罰としての切腹という風習はあったのか?」、さらに「罰としての切腹を意味する文字として<七>が使用されていたというのは本当か?」という、重大な疑問が生じてしまうのである。

ま、そこは結論をペンディングしてさしあげても良い。しかし、最後に小林サンは、「初七日だとか四十九日だとか葬祭関係で「七」絡みの数字が出てくるのは、この七という文字のまがまがしさと関係があるのだ」みたいなことを言いはなっているのだが、これは明らかにウソである。

何となれば、この初七日だとか四十九日だとかいうのはそもそもインドにおける初期の仏教の儀礼に端を発しているからであって、中国起源の「七」という漢字とは全然違うところから生じた概念でアル。仏教が興ったのは紀元前5世紀とか6世紀とか言われてるわけだが、漢字の「七」はその前にとっくに発生してたんじゃないだろうか?もちろんユングみたいに「七」というシンボルの意味はトランス・カルチャー的に人類にビルトインされているのだ、みたいな論法は不可能じゃないけど、小林サンはユングなんか知らんだろう多分(笑)。

というわけで、キッチリ論破するためにはちゃんと調べないとイカンのだが、こうやってみてくると、実にこの記述はアヤシイ。こういう人物の言うことを丸呑みしたらどういうことになるのか。ちょっと想像してみたほうがよかろう。

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『カネを積まれても使いたくない日本語』というものはあるか [あとらんだむ]

内館牧子著『カネを積まれても使いたくない日本語』というタイトルの本が出ているようだ。読んだわけではないのでナンだが、おそらくは日本語の誤用を厳しく糾弾する本で、たぶん編集者あたりが「センセイ、やっぱ書名もインパクトないと駄目なんで『カネを積まれても…』みたいなのにしましょうヤ」と押し切ってこんなタイトルをつけてしまったものだろう。

事情はワカル。が、やっぱり下品な書名ではある。

「日本語をどう使うか」なんていうのはカネをもらえるからとかナンとかいう話とはそもそも関係がない。ある用法が、その人の言語感覚に照らして「オカシイ」とか「奇妙」とか「醜い」とかそういう理由があれば避けるし、そうでなければ使う。それだけの話。

しかるにこういう下品なタイトルをつけてしまうと、「おぉそうかそうか内館サンという人はひょっとしたら基本的にカネで動くタイプの人なので、こういう発想をしてしまうんだろうネ」と邪推されるのではないか。でもたぶん内館サンはそんな人ではないだろう。版元は朝日新聞出版のようだが、やっぱり三流出版社のようなアコギなマネをしてはいけなかったのである。

いや、しかしちょっと待てよ。

さっき、たまたま月刊誌の『潮』を開いていたんだが、この雑誌の座談会とか寄稿にはよく公明党の話がでてきて、一流の学者とか評論家のセンセイが「自民党の暴走をおしとどめるためにも、連立与党の公明党の役割は重要である」みたいなことを言うくだりが必ず出てくる。それもほぼ毎号、お約束のように。

皆さんご承知のように、この雑誌は創価学会系の潮出版社が出している。巷間伝えられるところでは原稿料とか対談謝礼とか、かなりお高いという。つまりナンだ、この雑誌に登場するエライ先生方は、ある意味、言葉遣いみたいなレベルとはまたちょっと違うけれども、「カネを積まれて」勧進元のキタイする「日本語」を語ってくれていると言えないこともないんではないか。

もちろん「自民党の暴走をおしとどめるためにも、連立与党の公明党の役割は重要である」というのは基本的に正論であるから、識者の皆さんも別にカネを積まれて節を曲げて思ってもいないことを語ってるワケではないンだろうが、ま、少なくともそういうところに阿吽の呼吸というものがあるのは確かだ。

で、話はもとに戻るんだが、ひょっとしたら『カネを積まれても使いたくない日本語』という本も、正しい言葉遣いみたいな話だけではなくて、その辺の言論・出版界の機微にまでツッコミを入れているのであろうか? それであればここでいろいろ書いたコトも全部的外れになってしまうので謝らねばならないのだが。さて、どうなのでしょう?



カネを積まれても使いたくない日本語 (朝日新書)

カネを積まれても使いたくない日本語 (朝日新書)

  • 作者: 内館牧子
  • 出版社/メーカー: 朝日新聞出版
  • 発売日: 2013/07/12
  • メディア: 新書



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富士山ブームと小林朝夫サン [小林朝夫さん]

ネタに困ると、ついつい、いじりがいのある小林朝夫サンのことを書いてしまう。内心忸怩たるものがあるが、ま、いいか。

東日本大震災の悪夢さめやらぬこの日本にあって、「関東大地震は近い!」「福島第1原発はもうもたない」といったようなことを自身の有料ブログで盛んに吹きまくり、情報弱者の皆さんを恐怖のズンドコに陥れていた自称地震研究家の小林朝夫さんであるが、ついこのあいだ、女子高生のお嬢さんに対する淫行という犯罪を犯して青森県警に逮捕され(加えて再逮捕もw)、最終的には示談でもついたのだろうか、略式命令を受けて60万円を支払った上で娑婆に復帰されたことは小林朝夫ウオッチャーの皆さんにおかれては既にご承知のことであると思う。

しかし、再逮捕時には「無職」と報道されていた小林氏であるからして、さぞや生活にはお困りなのであろう。娑婆に復帰されてのち、【【 霊と地震とココロとカラダ 】】とか称する新しい有料ブログを立ち上げ、ナント月額9800円(驚!)で公開されているのも、そういう経済事情あってのことであろうと同情を禁じ得ない。が、さらに、ここにきてアマゾンのKindleストアで『富士山99の謎』なる旧著を売り出しているのをみて「こいつぁいよいよ台所大変なのだろうなぁ」としみじみ思うのだった。

fujisan.JPG

というのは他でもない。オレ自身はこんなものを買って読む時間もカネもないのであるが、この本についてはかなりイイカゲンな内容であるという指摘がネット上でなされて久しいのでアル。具体的にいうと、この『富士山99の謎』の謎(^_^;)というページである。執筆者のお名前は明記されてないが、地理学者で富士山に詳しい田代博氏のサイトにリンクが飛ぶようになっているので、おそらくこの方の文責になるものではなかろうか。いや、ホントはこの方ではないのかもしれんが、ともかくこのページが『富士山99の謎』のアヤシイ内容を的確に指摘されておられるのは確かなことである。

詳しくはリンク先でお読みいただければいいのだが、ひとつだけ引用させていただく。まず小林氏の文章。

富士山山頂は非常に寒い。8月の東京が仮に30度あったとしても、山頂での気温は0度近く。


これに対して実に的確なるコメントがついている。

気温の逓減率は0.5~0.6度C/100mです。地学分野で用いる理論値の0.65度Cとしても計算が合いませんね(^_^;)。


そう、私たちが中学・高校の地学で習うところによれば、標高が100メートル上がると気温は約0.6度さがる。文系コースで地学の時間は半分寝ていた(笑)オレでさえ覚えている話なのだが、はて、そうすると東京の標高が0メートルとして、気温30度だった場合、標高3776mの富士山頂上はオレの計算では摂氏7度か8度ぐらいになる筈なのだが、小林さんのもっている計算機だと0度近くになってしまうらしい。全世界の地学の教科書を敵に回した新説のようだ。

思えば小林さん、かつて家庭用電磁波測定器の針が動いたといっては「関東に地震近し」とか騒ぎ立て、それに該当する地震がないとなると「外国の地震を予知してしまった」とか言い訳をしていたのであるが、まぁ仮に百万歩譲って(笑)家庭用測定器で地殻の磁気変動が測定可能だと仮定しても、そもそも磁力の強さは距離の二乗に反比例するという理科の知識があれば「海外の磁気異常を拾った」などというバカな話はあり得る筈もなく、つまり小林さんは中学・高校レベルの科学知識が全然ない人だったワケであるが、この富士山の一件でも理科オンチぶりを満天下にさらしている。

思うに、このたびは富士山の世界文化遺産登録というニュースもあったことだし、これに便乗して、むかし書いた本が少しでも売れりゃあ寂しいフトコロも暖まるんじゃねーかと、世に言う「便乗商法」を展開しておられるのだろう。まぁしかし、ホンモノの富士山フリークの方にコテンパンにされている本をいまさらKindleに並べて売ろうなんていうのは、何かあまりにもなりふり構わず感が漂っていて悲しいぞ。

とはいえアマゾンのサイトをみると、たった二人とはいえカスタマーレビューがついていて、しかも驚く無かれ、そのお二人がともに最高点の5点をつけるという何とも日本の将来が危ぶまれる(笑)結果が出ているので、アタマの弱い方がついつい買ってしまう可能性もないではない。アマゾンは自分で買った商品でないと採点できず、オレもわざわざ買う気は毛頭ないので、まぁこれはこれで放っておくしかないのだった。

というわけで、意外にこんな本でも買っちまう人が出てくる可能性はないではない。さて、小林朝夫さんの明日はどっちだ?

【追記】
とゆーか、そもそも朝夫さんは「富士山は近々爆発するッ!」みたいなことも盛んに言っておったので、こういうノンキな本のKindle版を出してるヒマがあるなら、「世界文化遺産なんて浮かれていては危ないッ!!  逃げよ逃げよ!富士山から遠ざかれ~」という本を書き下ろしで出した方がツジツマがあっていいと思うのだが。やはり破廉恥罪で捕まってしまったし、そんな気力は沸いてこないのかしらん?


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スクエニ絡みのフィッシングメール [身辺雑記]

たまにフィッシングメールというのが来るのであるが、これなんかもそうである。

タイトルは [スクウェア・エニックス アカウント]あなたのID異常
差出人は autoinfo_jp  とある。

enix0.jpg

一見してダメである。「ID異常」とかいうんだが、全然その説明がない。 まっとうな企業なら最低限、それがどういう現象で、どういう問題があるのか、説明をするのが当然である。 こういう拙い日本語を書いてしまった時点で論外である。 それに誘導先のアドレスなんだが square-entx.com とか書いてあるわけで「entx」とかいってる時点で、失笑ものである。 この辺もうまく偽装しないといけない。

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PCビデオボード換装 [PC]

N660GTX Twin Frozr III OC.jpg

PCの構成を替えたときのことはついつい忘れてしまうので、私的メモ。
「N660GTX Twin Frozr III OC」@21,166 購入ス。
今年のうちぐらいにHaswell態勢に移行しようと考えているのだが、ついつい先走って、現時点ではけっこう評判の良いボードを買ってしまった、という次第。
体感的にはよくわからんが、とりあえずWindows エクスペリエンスインデックスでは「ゲーム用グラフィックス」が7.5→7.9

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何で日本人は英語が下手か [身辺雑記]

というわけで、永遠のテーマ「何で日本人は英語が下手か」である。

一説に「英語と日本語は言語学的にかなり系統が異なっているので習得が難しい」という理論があるらしい。だがしかし、それだったら英語をしゃべってる連中は日本語なんて金輪際しゃべれない筈なんだが、じっさいにはケント・ギルバートとかパックンとか流暢な日本語を操る米国人はゴマンといるので、ちょっとこれは違うような気がする。

で、暫定的に俺が考えているのは、ヤッパ英語にどうしてもつきまとっている、あの「リアリィ?」とかいって肩をすくめたり、あるいは「アァハン?」とかいって相づちを打たないといけない独特のノリが、日本人にしてみればどうしても許容範囲外というか、許せないものであるがために、「そんなことやってられっかYO!」という事で日本人は生理的に英語を拒絶してしまうのではないかと思うのだった。「そんなはしたないことはできぬ!」みたいな。

念のためにいっておくと、「日本人はシャイだから下手な英語でやりとりするのが恥ずかしい、よっていつまでたっても上達しないのだ」みたいな議論もよくあるんだが、そういう「シャイ」だとか何だとかいうのは俺の議論からいうと微妙にポイントを外している。もっと実存的っつーか、アイデンティティの崩壊につながるようなクリティカルなトコに英語が土足で踏み込んでくるからこそ、この勤勉な日本人(笑)は逆に悩んでしまって先に進めないのである。

つまり「RとLの区別がつかないから」みたいなテクニカルな問題ではなく、その言語表現をとりまく、文化的なたたずまいみたいなものが日本語環境と英語環境では根本的に違っているところに根源的なポイントがあるのではないか。

じっさい、英語のできない俺たちは英語遣いに対してついつい「軽薄な野郎だ」的な印象をもってしまうわけで、つまり文化環境オリエンテッドな偏見がすべての根源だったのでアル。違うかな。


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エジプトで「クーデター」 [NEWS]

さて、エジプトのムルシ大統領が軍部のクーデターでその地位を追われたというニュースである。

ムルシ氏というのは、アラブ世界での民主主義がドミノ倒し的にすすんだ、いわゆる「アラブの春」の流れにのって実現した「エジプト革命」の、その成果としての民選大統領である。たとえ政治的手腕がボロボロで国民に怨嗟の声が充ち満ちていたとしても、軍部が出てきて政権をひっくり返すのはよろしくない、民主化への逆行だ、と憤ってみせるのがとりあえずのメディア的「お約束」であるらしい。

ただちょっとひっかかるのだ。「政治に口を出す軍部=悪」みたいなステレオタイプはこの場合適当なのかという思いもある。もちろん選挙で成立した政権を武力で壊す、というのは全然民主的ではないワケで、日本の歴史など振り返ってみても「まずいだろ!」というのは、とりあえず「正しい」。

ただトルコなんかもそうなんだが、もともとイスラム的な価値観が支配していたムスリムの国にあって、「いや、これからはそういうシバリで何でも律するのはダメだから、もっと世俗的な価値観も大事にした近代国家を作っていこうや」という話になったときに「軍部」というのは頼りになる存在であって、事実エジプトでも軍部はそういう近代的価値の擁護者でもあったのだ。

ムルシだってもともとは「ムスリム同胞団」から出てきた人物で、「ベールかぶれ」だ何だのと言いたがるイスラム団体が(良いか悪いかはしらんが)「近代化」への抑圧勢力であるという一面があるのも確かなのだから、みんなが文句いいたくても言いにくいところでガツンと意思表明する軍部を単純な悪と断ずるのはどうか。

よその国にはその国なりの事情もある。単純に「正義対悪」みたいな図式をもちだすことには慎重でありたい。

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人類の文化というものを考える(笑) [身辺雑記]

考えてみるとオレも若い頃は左翼かぶれであった。何かっつーと「それは単なるイデオロギーに過ぎない」とかなんとか、わかったようなクチをきいていたものであるが、この左翼流の「単なる××に過ぎない」という言い回し、実はなかなか使い勝手が良い。「アンタが後生大事に抱えているモノってゆーのは、よくよくみればインチキじゃんガラクタじゃん虚偽意識じゃん」といって相手の拠り所を奪ってしまおうという、「いきなりテキの本丸急襲」みたいな論法である。

で、そのバリエーションでしばしば左翼がもちだす議論に「明治以前の天皇にはそれほど権威があったワケじゃなくて、天皇を万世一系のスメラミコトとかいってあがめ奉る近代の天皇制なんてものは結局明治以降の作りものなんだよネ」というのがある。

皇室の祭祀なんかも長年途絶えてたのを明治になって復活させたものが多い、みたいな話もどっかで聞いたおぼえがある(村上重良氏の言だったような気がするが定かではない)。つまり、皇紀は2600年だか何だか知らんけれども、「日本民族はその間ずっと天皇を仰ぎ奉ってきた」と言い募るのは完全なフィクションなんだから「なにをそんなに有り難がってんだヨ」というツッコミである。

そりゃまぁ確かにそうなのだろう。

そもそも江戸時代には『国』といえば『××藩』というイメージしかなかったというし、そこに近代的な国民国家=ニッポンという概念を立ち上げるためには何かしら象徴的なモノというか、依り代が必要であった。そこで「あぁそういや倉庫の奥に『天皇』ってものがあったなぁ」ってんで倉庫の奥から引っ張り出してきたお神輿が天皇だった、と。そういうことではないか。

ただ、最近ちょっと考えていることがある。「それって実はみんな思っているほど長い歴史があるわけじゃなくて、実は最近でっちあげたモノなんだよね」といって崇敬者をシラケさせようというこの論法は本当に有効なのか。

たとえば「お墓」とか「埋葬」のことを考えてみる。

遺骨を海にまく散骨とか木の下に埋める樹木葬とか最近はいろいろあるようだが、何となく「でも日本人はやっぱり火葬してお墓に骨ツボ納めるのがデフォルトじゃネ?」という風にワレワレは考えがちである。ところが実際は、明治時代になっても日本では土葬がメジャーだったらしい。つまり棺桶を埋めてその上に何か目印の石か何かを置いてオシマイ、というヤツである。時代をさかのぼれば、なんかその辺の草っぱらにゴロンと投げてオワリということもあったそうな。

いまのジョーシキからすれば、「投げ捨てる」のは勿論、「棺桶埋めて墓標たててオワリ」みたいなのはなんとも気持ちの落ち着かないふるまいではないだろうか(そもそも土葬自体実質禁じられてるということもあるが)。たかだかこの150年間の間にすっかりワレワレの常識はラディカルに変わっちまったのである。

いま・ここに生きている人間に「あぁ、こりゃ実にしっくりくるねェ」と感じさせるような制度というのは確かにあるワケだが、その説得力が別に「実際に長年続いてきたから」ではなく、そりゃ歴史的にみればそんなに古いワケではないけれどもまるで2000年続いてきたかと誤解させるぐらいの説得力を感じさせるから、というトコから滲み出してる場合もけっこーあるんではないか、という話だ。

となると、最近の作り物だから軽視していい、とは軽々に言えない。とゆーか、お墓にしても天皇制にしても、おそらくそのスキームがガラッと変わったときにはそれなりの社会的文化的な変動があった筈で、そういう変換点にあって、時代にマッチした説得力のあるシステムを作り出すというのはすげぇ発明ともいえるワケであり、むしろ褒めるべきこと、文化の勝利といえるのではないか?

いや、ここまでいくと何か近代天皇制バンザイに限りなく近づいてしまうので元左翼シンパからするとナンなんだが、考えてみると、こういう議論の射程は相当に深いような気がしないでもないぞ。

たとえば「生物としての人類」というものは何百万年もの歴史をひきずっているわけだが、だからといって「生物学的な本能に逆らうのはイケマセン」ということになれば、「オスが無理矢理セックスしたがるのは本能なので仕方ない」という橋下徹みたいな下品な結論になってしまう。そうではなくて、「いや、生物種としては確かにそういう側面もあるんですが、そこはうまくコントロールして文明を築いているのが我々人間なのです」といってのけてこそ人間は威張れるのではないか。

・・・とまぁ、何だか酔った勢いのチラ裏的メモになっちまった。後日機会があればまた。


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朝日「耕論・熱すぎないか高校野球」を読んでの感想 [朝日新聞を嗤ふ]

「朝日新聞主催の夏の高校野球は欺瞞にみちているので何とかせねばなるまい」という話は、このブログでも毎年のように書いているところである。

具体的にいうと

★すでに夏の甲子園はセミプロ的高校球児がプロのスカウト向けに技量をアピールする場になっている。一方で、地方の私立高校は「全国に名前を売る」ためにそういうガキどもを集めて強いチームを作ろうとしているから、ここに強力なるタッグが成立する

★そういう連中にしてみれば「強けりゃそれでいい」。もはや「教育の一環としての高校野球」などというものは絵空事

★もうひとつ、外人部隊が田舎の高校に乗り込んで××県代表とか名乗ってるわけだから「郷土の代表」なんてものは嘘っぱち。いってみればカンボジア語もしゃべれない猫ひろしがカンボジア代表でござい、と大見得を切っているような猿芝居である

★つまるところ、「清く正しい高校野球」などというのはもはや大嘘である。夏の甲子園はいっそのこと「プロ野球候補選手セレクション大会」とでも改名して、超高校級のスーパー球児のプレイを堪能する大会に宗旨替えすべきである


みたいな主張である。

非常にイイ提言だと自分では思っているので(笑)、朝日新聞が「ぜひご意見を拝聴したい」と言ってくるかと思えば、そんなことは全然なく、残念だなあと常日頃思っているわけなのだが、けさの朝日新聞をみて、ちょっと驚いた。

「耕論」という欄に、ノンフィクション作家の軍司貞則さんが登場し、「やっぱり今の高校野球はおかしい」という意見を述べているではないか!

ちょっと引用してみよう。

 夏の大会に参加する約4千校のざっと9割は、人間形成など教育目的で野球をするアマチュアです。これらの学校や選手はさほど問題を起こさないが、甲子園出場の確率も低い。残り1割はというと、プロ的な世界にいると言えます。野球を職業にしたい、あるいは進学や就職の手段と考える選手、それを支持する大人たち。野球部の活躍を生徒獲得に利用したい学校経営者、勝利を請け負う監督。周辺には、有望な選手と高校をつなぐブローカー、プロ野球のスカウトらがいる。

 「プロ」の世界を動かすのは教育ではなく、勝利至上主義。勝たなければ学校の宣伝にならず、監督は職を失う。選手も能力がなければ切り捨てられる。生活がかかった真剣勝負です。監督は見込みある選手の指導に集中する一方で、才能を見限られた側の一部がうっぷんをぶつけたり、不祥事をメディアに通報したりする事態もあります。暴行や飲酒事件が発生するケースも後を絶ちません。

 世間は建前上、「プロ」の学校にも教育の原理を貫くよう求めます。だが本音では、教育目的の野球ではなく、「プロ」同士の死にものぐるいの戦いを見たいと望む人も少なくない。


というわけで、軍司さんは最終的には「いっそ甲子園大会を一度やめてはどうか」みたいなことを言っておられる。この結論はオレとはちょっと違うんだが、基本的な現状認識についてはほぼオレと一致しているぞ。つまり、「清く正しい高校野球」と「セミプロ化した高校の跋扈」というのは根本的に両立しえない、と言っているわけだな。

ただ、ひとつ言っておくと、この「耕論」という欄は、3人出てきてそれぞれに意見を述べるというページなのである。なんだかなぁ、いろいろ批判されてンで、まぁアリバイ的にキツイことをいう人間を一人いれておいて、で、何となくガス抜きをして、しかし実際は何にもしない、もちろん「甲子園大会を一度やめる」なんてことはハナから考えてもいない。なんかそういうアリバイ作り的な戦略がミエミエなんだよなー。

そういう姑息な手をつかいなさんなよ、とオレとしては言いたい。せっかくスルドイご指摘を頂いたんだから、本当に一回、夏の甲子園をやめてみたら如何か。そうでもせんと、日本の高校野球は立ち腐れるばかりであろう。

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川越シェフ騒動に思ふ [NEWS]

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テレビとかで有名な川越シェフが、ブログが炎上して謝罪に追い込まれたらしい。チマタの芸能ニュースなどによると、雑誌のインタビューにこたえて「問題発言」をやらかしたのがきっかけ、とのこと。「日刊サイゾー」のサイトにその記事がまだ載っているから引用しておく。

――では、「食べログ」のような評価サイトのことをどう思われますか?
川越 くだらないです(即答)。僕は興味もないし、何をわかって書いてるの? と思いますね。人を年収で判断してはいけないと思いますが、年収300万円、400万円の人が高級店に行って批判を書き込むこともあると思うんです。
  (中略)
僕の店も「水だけで800円も取られた」と非難されることがある。でも、当たり前だよ! いい水出してるんだもん。1000円や1500円取るお店だってありますよ。そういうお店に行ったことがないから「800円取られた」という感覚になるんですよ。


とまぁ、こういうわけで、オレが平たく言い換えると「貧乏人の舌じゃオレの料理なんかわかるわけねーんだYO。食べログでオレの店に渋い点つけやがってコノ野郎。水が800円もする~とかいって驚く貧乏人にはオレの店に来て欲しくねえんだよッ!」という発言なのであった。

すると、全国の低所得者が「何をいってやがるッ!」と猛反発。最終的に川越シェフ、6月23日に自分のブログで「この度は全国の皆様に不快感、そしてご迷惑をお掛けしてしまい、心より反省いたしております」という、いったい何をどう反省しているのかよくわからない発言をして、いちおう幕引きとなりました、という次第。

で、いろいろ思うことがあるので記しておこう。

まず、川越シェフは謝らなくていい、ような気がする。なぜかというと、彼の「そんな貧乏人ども相手にしてねーよ」というセリフはホンネだと思うから。彼の店というのがどういう料理店かは全然知らんが、たぶん高級料理店なのであろう、そういう店は金持ちとかスノッブ、貴族的なお暮らしをしているやんごとなき方々を相手に商売をしている筈。水で800円とっても誰も文句は言わんのだろう。「ウマイかどうか」なんてのは極めて主観的な判断であって客観的にどうなのかなんてことはよくわからんけれども、ともかく顧客の金持ちの皆さんは「ウマイウマイ、こういうものを食べなれない貧乏人の舌では到底理解不能でしょうが、やっぱり10万円ぐらいかけないとマトモな食事は食えないですなあ。ハハハ(想像w)」とかいって鼓腹撃壌、喜んで帰っていくのだろう。貧乏人の出る幕はない。

で、貧乏人の皆さんないしは食いものにそんなカネはかけられない人々(含むオレw)の立場にたてば、そんなスノビズムにお付き合いする必要はない。「水800円? 馬鹿じゃネ? よっぽど金が余ってて使い途に困ってんじゃNE」とかいって、そんな店は徹底的に無視すればイイのである。お互い住む世界が違うのだ。川越シェフの世界に潜入していって、「オマイラおかしい」と抗議するなんて愚の骨頂なのである。結局、お互いバカにしあっているのだから、今西錦司のいうように「棲み分け」をして両者が遭遇しなければ、無用の争いも起きなくて平和なのである。たぶん、「食べログ」とか、そういう両者の境界を無化させてしまうツールが発生したことが今回のような悲劇を生んだのであろう(笑)。

ただなぁ、それでも川越シェフが「謝っちまおうかなー」と思った理由というのもワカルような気がするのだナ。

チト話はでかくなるが、現代社会において、金儲けの基本は「市場」をゲットすることだ。世界じゅうの企業が中国政府のゴキゲンをとっている(一目置いている、といってもいいが)のも、あそこには13億人もの人間がいて、つまり巨大な市場が見込まれるから。まぁ、今ンとこ大多数の中国人は貧乏人であるが、それでも仮に13億人が1ドルの製品を買ってくれれば13億ドル、みたいなハナシで、先進諸国ではみんな「もう買いたいものがないよー」とかいってるところで、実にもう、ヨダレが出るような可能性に満ちているのが中国市場なのデアル。

反日暴動の真っ最中に、中国のAudi販売店は反日横断幕を掲げて「オレらは中国の皆さんの味方です」などと姑息なアピールをしてしまっタのだが、アレなんかも欲に目が眩んでついついやってしまったことなのであろう(もっとも、あとになって「アレは現地従業員が勝手にやったことです」とかAudiも言い訳したらしいけれども)。

やや脱線した。何をいいたいかというと、金儲け的には「不特定多数に薄利多売でガンガン売りつける」ほうが、「高い商品をひとつひとつ売っていく」のよりオイシイ、という話である。川越シェフだってそうなのだ。テレビとかでさんざん顔を売った今、高級レストランで地道に稼いでいくよりも、「川越シェフプロデュースの店」とかいってチェーン店を全国展開して、安い素材で作った安い料理を一般大衆にガンガン食わせたほうが効率は良い。あるいは「川越シェフプロデュースのパスタソース」とかいって、大手食品メーカーにガンガン売らせれば大儲け。

とまぁ、実際に川越シェフがそういう事業展開を進めているのかどうかは全然知らんが、「この知名度を生かして金儲けでもしようか」って時には、どうしてもそういう路線をとらざるを得ない。でも、そのときにターゲットにしないといけないのは・・・おっと困った、川越シェフが大嫌いな「貧乏人」じゃあないですか。さあどうしましょう? 貧乏人バカにしちゃったけど、ここで謝っておかないと「何だあの川越ってヤツ? 貧乏人をコケにしやがってよぉ。何様のつもりだYO」という印象が固まってしまっては先はない。「じゃ、不本意だけど、いちおう謝っとくか」というのが現在の状況なのではないか。

以上すべてはオレの邪推であるけれども、川越シェフがブログに書いた謝罪のコトバというのが、どうにも心に響いてこないのでそういう風に考えざるを得ない。となると、老婆心ながら川越シェフにひと言いってあげたくなるのだな。――もう貧乏人の世界とは縁を切って、バカな大衆が喜んでみているテレビに出演するのもやめて、舌の肥えた超一流のセレブの方に囲まれた世界にお戻りになったら如何ですか、って。

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「埋没地蔵の館」というサイト [Nice]

何か世に対して拗ねたような人たちには、無条件で親近感を抱いてしまうのである。

そういう意味で最近注目しているのは、以前もチラッと触れたが、例の村上春樹の新作に対してAmazonレビューで毒づいてみせたことでネット界隈で注目(笑)を集めた「ドリーさん」。ホームグラウンドとおぼしき「埋没地蔵の館」というサイトをたまに巡回している。

いいではないか。

直近のエントリーでは、南直哉(坊さんである)の人生論に文句をつけている。自分探しなんてやめなさい、いまここにある「縁」を掘り下げていくことに幸せはあるのだ的な正論にたいして、「それができりゃあ苦労はねーんだよ、夢でもみなきゃ生きていけねーんだよ」(オレ的意訳)と青春の怒りをぶつけている。再び言う。いいではないか。

或いは「ぼっち」の悲哀を切々と語るエントリー。特に学校での「ぼっち」。わかる。実によくわかるぞ。

ただ、得てしてこういうサイトというのは、「しょせん蟷螂の斧か」という無力感にさいなまれたあげく、いつのまにか更新が滞って消え去ってしまう、ということになりがちなのである。頑張れ若者!世に出る迄オレは応援しているぞ(別に何ものでもないオレなんかに応援されてもメリットは全然ないのだが、まぁしかしちょっとだけ人生の先輩ヅラをさせていただければ、ということでw)。


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アイ・ジョージ [あとらんだむ]

アイ・ジョージという、とても歌唱力のある歌手がいた。いや、まだ亡くなったという話はきかないから存命であるのかもしれない。

で、ふと思い出したのだが、この人が「民族の根っこには伝統的なリズムがある」というようなことを言っていて、「おぉなるほど」と思った記憶がある。「徹子の部屋」か何かで聞いたような気がするが、よく憶えてはいない。

オレが記憶している限りでいうと(いまとなっては本当かどうかアヤシイものだが)、たとえば日本人というのは二本足の鳥のようなもので、つまり二拍子のリズムが骨の髄までしみついている、と彼はいうのだった。言ってみれば「イチニ、イチニ」「よいしょ、よいしょ」という、いわば鍬か何かをふるって農作業をしている時のリズムがどこか基本的なものとして身体にビルトインされている、という話である。

これに対して西洋人は四拍子だったか、三拍子だったか、ともかく二拍子ではないリズムを基本に生きているという話だったような気がするのだが、もともと音楽の素養のないオレなので、その辺はよく憶えていない。ともかく民族のベースになる拍子が日本人の場合は二拍子である、というのがキモなのである。

武智鉄二のナンバ歩きにまつわる議論ともどっかで重なるような気がするのだが、ナチュラル・バイブレーションっつーか、我々の身体を根源的なところで縛っているリズムがある、っつー感覚は、けっこうするどいのではないか。と同時に、なんかちょっとアヤシイ雰囲気を漂わせていたアイ・ジョージはどこにいってしまったのだろう、という思いが心中にきざしたりもする。

サルバドール・フレイクセド氏について [UFO]

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Salvador Freixedo

あとヴァレの本には、UFOの超常現象的側面に注目してきた南米の研究者として Salvador Freixedo という人が出てくる。サルバドール・フレイクセドと読めばいいのだろうか? スペイン語で本を書いてるようで、やはり英語に翻訳された本はあんまり無いみたいだ。とりあえずググってみると英語版のウィキペディアに記述があった。だいたい次のようなことが書いてある。

1923年、スペインはガリシアの生まれ。カトリックの信仰篤き家庭で育つ。16歳でイエズス会に入り、1953年には司祭となる。1947年以降、アメリカ大陸の各国を渡り歩く。1950年代からカトリック教会への批判を開始。本の刊行にかんして投獄され(引用者注:名誉毀損か何かだろうか?)、1969年にはイエズス会から追放される。1970年代になると超心理学にかかわる分野――とりわけUFO現象と宗教との関係についての探究に取り組む。


というわけで、なかなか骨のありそうな人物である。没年が書いてないのでご存命かと思うのだが、すると既に齢90歳といったところか。長老だ。たぶん超常現象とUFOのかかわりみたいなところを、つまりはジョン・キール的な問題意識で、しかも宗教を絡めて語っている人であろうと想像される。

しかし「元イエズス会士のUFO研究家」ですぞ。イグナチオ・デ・ロヨラ。フランシスコ・ザビエル。南蛮人。転び伴天連。エクソシスト。聖水。懺悔。魔女狩り・・・なんか、カトリックのことを知らない東洋人としては、連想ゲーム的に妄想が炸裂してしまうではないですかッ? 考えすぎ? この方も日本では全然知られていないようなので、誰かスペイン語のわかる人にちゃんと紹介してほしいものである(と、いつも通り人をアテにする私)。



ベルトラン・メウー氏について [UFO]

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Bertrand Meheust

UFO好きとかいいながら、ここ数年、ヴァレの本を読むこと以外にはとりたてて何もしていない。それでも彼の本の中には日本ではなかなか知られていない人物が登場してくるので、余裕があれば調べてみたいような気はしているのだが、そこんトコがなかなか難しい。

たとえば、これはかなり前に当ブログでもチラッと書いたが、フランスの社会学者でベルトラン・メウー(Bertrand Meheust)という人がいる。搭乗者事例と「それ以前」のSF小説との連関などについて本を書いているのだそうだ。畏友magonia00氏によれば、SF作家のイアン・ワトスンはメウーの著作に触発されて『奇蹟の訪問者 Miracle Visitors』を書いたらしい。けっこう重要な人物のような気がしないでもない。

で、いろいろとググったら、UFO研究の親戚筋(笑)ともいえるUMA(未確認生物)を研究しているローレン・コールマンがメウーに関していろいろ書いているページに行き着いた。2人の生年月日は1947年7月12日でまったく同じ。その辺の親近感もあるようで、かつメウーの著作はどうやら英語に翻訳されていないフシがあって英語圏では知名度が低いのだろう、彼の事績をやや詳しく紹介している。以下大意。

では彼のことを紹介してみよう。

フランスの資料にあたってみると、ベルトラン・メウーは1947年7月12日生まれ。ママにいろいろ文句をつけたがる小さい頃には、「なんで3週間早く6月24日に産んでくれなかったんだ」としばしば文句を言っていたそうだ(ちなみにメウーと私には貧乏な労働者階級の家に生まれた、という共通点もある)。

フランスで活動する研究者・著述家であるメウーは、ユング派ユーフォロジー、超心理学、社会学、さらには政治学の専門家として知られている。かつてはトロワで哲学の教授をしていたが、現在では退職している(ちなみに私はといえば、かつてはフルタイムで働く研究者として、大学でドキュメンタリー映画や社会学、社会福祉を担当する准教授・助教授を務めていた。退職したのは2003年である)。

メウーが1981年に執筆した修士論文は、ウィリアム・ジェームズにかんするものだった。彼は社会学博士だが、それは1997年に動物磁気にかんする研究でソルボンヌ大から受けたものである(ちなみに私の修士論文は1978年、「職業上の性差別」をテーマにしたものである。博士課程にも進むことはできたのだが、PhD、すなわち博士号をとるために必要な二つの単位を取れずに終わってしまった――ひとつは社会人類学、もうひとつは社会学であった)。

彼は「インターナショナル・サイキック・インスティテュート」の運営委員会の一員である(ちなみに私は「未解明現象探究協会」ならびに「国際未確認動物学協会」の創設メンバーであり、名誉会員かつ永世会員である。もうひとつ、「国際未確認動物学ミュージアム」の創設メンバーにして館長でもある)。

1975年と1978年に、それまで本を出したことのなかった私は、共著として2冊の本を刊行した(相方はジェローム・クラークだ)。そこで扱ったのはユング派ユーフォロジー、未確認動物学、フォーティアン=怪奇現象をめぐる話だった。以来、読者諸兄の多くはご承知であろうが、私は未確認動物学・社会学・伝記・アノマリー現象・社会福祉・人類にまつわる様々なミステリー――といったことどもについて本を書き続けてきたのだった。

一方、1978年にベルトラン・メウーは最初の本を出した。それは「UFO現象が騒がれるようになる前に、それを先取りするようなSF小説が登場する」というナゾをめぐるものだった。その際に彼の相談役をつとめたのはエメ・ミシェルだった(私の場合はアイヴァン・サンダーソン、ベルナール・ユーベルマン、ジョン・キールであった)。メウーの本は、20世紀はじめのパルプマガジンに載った三文小説が、それから何年もあとになってようやく出現する現象のことを書き記している、とは如何なることか検証しようとするものだった。そう、考えてみても欲しいのだが、ケネス・アーノルドが現代における「空飛ぶ円盤」の歴史の幕を切っておとす1947年というのは、その時点ではまだずっと遠い先のことだったのだ。

メウーの本はしばしば懐疑論者によって引用されるわけだが、彼らとしては「UFO現象というのは単に心理学的な説明で事足りる」という主張を後押しする、有力な論拠をそこに見てとっているワケだ。だが、メウーのテーゼというのは実はもっともっと複雑だ。メウーの本を読むと――それはカール・グスタフ・ユングの大いなる影響を受けているワケだが――実は彼はそこで「地球外生命仮説」を弁護していたりする。

1999年、彼の大学における研究テーマ――つまりは霊媒についての研究が2巻本(計1200頁である)として刊行された。その本は超心理学の界隈で新たな論争を巻き起こした――いや、それは心理学の世界においても然り、であった。それは18世紀末からこの方、人間には秘められた潜在的な能力があるのか/ないのか、といった問題を争点化してきた研究史や学説史、あるいは様々な概念の歴史をたどり直すものだった。
(以下略)


別に聞かれてもないのに自分のコトまで書いちゃってコールマンさんお茶目なんだから、という感じである。ちなみにUFOファンの方には釈迦に説法であるが、「1947年6月24日に生まれたかった」というのはもちろんケネス・アーノルドの目撃があったまさにその日のことを言っているのである。

というわけで、どうやらメウーさんは「ユング派ユーフォロジスト」という括りに入るらしいが、アッチではそういう呼称がフツーにあるのだろうか? で、コールマンさんも「別にユング派だからといって全部心理的現象に還元してるわけじゃないヨ」的なことを言ってるのだが、ユング御大の『空飛ぶ円盤』を読んでもET仮説を全否定してるわけではないので、メウーもその辺は含みを残した議論をしてるのかもしれない。よくわからんけど。

もちろんフランス語は手も足もでないので、英語で何かメウーに触れたものはないかと調べてみると、 Jeffrey J. Kripal著『Authors of the Impossible』という本が、ヴァレとかメウーについて論じていることがわかった。とりあえずKindleで買ってみた。しかし、英語力が貧弱なのでいつ読めるかはわからんというのが現状(笑)。



Authors of the Impossible: The Paranormal and the Sacred

Authors of the Impossible: The Paranormal and the Sacred

  • 出版社/メーカー: University of Chicago Press
  • 発売日: 2011/09/16
  • メディア: Kindle版



ジモトの政治家さん [NEWS]

オレは某都内E区に居住しているが、地元には中津川博郷&中津川将照サンという、親子で政治家をやっている人たちがいるのだった。で、ここんとこ、お二人が相次いでニュースに登場なさっている。以下ネットニュースから引用。

「落選なら破産」 維新・中津川氏が立候補辞退へ 


 日本維新の会から参院選比例区の候補として公認されていた中津川博郷前衆院議員(64)が、立候補を辞退する意向を固めた。11日夜、東京都内である自身の政治資金パーティーで表明する。すでに党幹部に辞退を伝えていると言い、朝日新聞の取材に「維新への支持が下がり、落選して供託金が没収されたら破産してしまう。今回は他の候補の支援に回る」と話した。(2013年6月11日18時37分 朝日新聞)


交際女性に暴力、出馬予定の区議公認取り消し 


 東京都の中津川将照・江戸川区議(27)が今年3月、千葉県の市川区検に傷害罪で略式起訴され、市川簡裁から罰金30万円の略式命令を受けていたことが千葉県警などへの取材で分かった。 

 同県警や同簡裁などによると、中津川区議は昨年10月、千葉県市川市内のカラオケ店で交際相手の20歳代女性と口論になり、左肩を殴るなどの暴行を加えて10日の軽傷を負わせたとして、略式命令を受けた。 

 中津川区議は2011年4月の区議選で初当選し、現在1期目。今月行われる都議選に江戸川区選挙区から出馬予定だったが、先月28日、日本維新の会東京都総支部が「一身上の都合」を理由に立候補辞退の申し出があったとして公認を取り消していた。

 中津川区議は5月29日付の自身のブログで「高熱を発症し、体調の思わしくない日が続いていた」と、立候補辞退の理由を説明していた。同区議会事務局は中津川区議と連絡が取れないという。
(2013年6月4日12時01分 読売新聞)



ちなみにこの親のほうの中津川博郷サンは、2009年の総選挙では民主党から出て比例東京ブロックで当選したんだが昨年夏に離党、12月の総選挙では日本維新の会から出馬したけれども落選、という人である。

政治家というのはしょせん有権者の写し絵などともいわれるンだが、「あ~ぁ」という心境であるなあ。

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トルコと民主化とGDP [NEWS]

さて、トルコの反政府デモである。

新聞などを読むと、そこそこ穏健派ではあるんだが、基本的にイスラム政党をバックにしているエルドアン政権に対して「もっと自由をくれよ!」という勢力が反撥し、騒動になっているという図式のようだ。

で、ここでふと思う。確か「国民ひとりあたりのGDPが1万ドルを超えると、国民は民主化とか自由を求めて立ち上がる」というテーゼがあったような気がするぞ。どこで聞きかじったかは忘れたが。

改めてググってみると、 「一人当たりGDPが2000ドルを超えてくると民主化運動が活発になる」 という説は実際にあるらしく、たとえばChief Dream Officerというサイトをみると、チュニジアとかエジプトの民主化運動というのはこの2000ドルの壁を超えたあたりで起きたらしいことがわかる。

ふーむ、1万ドルでなくて2000ドルだったのか、オレの記憶違いであったかと思うのだが、念のためトルコの一人あたりGDPはどのぐらいかというと、「図録 1人あたりGDPの世界ランキング(2011年)」というページがあって、これでみるとまさに1万ドルを超えたあたり。なるほど、2000ドル説でもいいんだが、1万ドル説でも悪くないじゃん、と思う。

まぁそれはともかく、こういうモノの見方はそれなりに妥当性があると思う。食うや食わずの貧乏暮しであれば、政治的自由もクソもない、とにかく喰わせてくれ、というのが先にたつ。「開発独裁」なんて言葉もあった。独裁でも何でもいいから経済回してくれよ、という時代はたぶんどこにでもあるのだろう。

が、そこそこリッチな暮しができるようになってみれば、何か政府が偉そうに色々干渉してくるのが何とも腹立たしい。「何だお前らは」と抗議の声も上げたくなる。そういう話である。

でもって、イスラム国でありながら、「でも世俗主義も大事にしようや」といってここまでやってきたトルコは実にエライ国であって、だからここで1万ドルの壁を超えながら、さらに民主的価値を大事にする国になっていってくれれば、ある意味で多くの国々の模範たりうるのではないか、という思いもある。

実のところ、個人的にはむかし観た映画『ミッドナイト・エクスプレス』で描かれた、暗く陰鬱なトルコのイメージがながく脳裏を離れなかったことを白状せねばならんのだが、あの映画で描かれたのは1970年代のトルコなのであって、今のトルコではない。山坂あって、それでもここまでやってきたトルコの人たちよ、ここはもうひとがんばりしてくれよ、と思いつつ、トルコ情勢を見守っていきたい。

追記
なお、先の「図録 1人あたりGDPの世界ランキング(2011年)」によれば、中国は5417ドル。北朝鮮は1155ドル。ふむ。そういうことなんだろうね、と勝手に納得するオレ。え、日本はどれぐらいか、って? 当ててみてくださいナ(笑)。折り畳んだ先に回答を書いておきますネ。

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小林朝夫容疑者(笑)逮捕 [小林朝夫さん]

いつも言っているように、何かグチグチと世の中のことにケチをつけまくるとゆー我がブログのコンセプトはほとんどの善良なる(笑)日本国民の皆さんの良識を逆撫でするものらしく、訪れる人はおそらくは天声人語が大嫌いな偏屈な人とか今や絶滅危惧種のUFOマニアさんとか変人ばかりなのだろう、いつも閑古鳥がないている人外魔境ブログなのであった。が、しかし。

こないだ設置したばかりのカウンターが、なぜか今日になってからグルグル回り出し(とはいってもオレ的には、というレベルの話なのだがw)、いったいどうしたことかと調べてみると、なんと、当ブログで再三ネタにしてきた自称作家で地震研究家(笑)の小林朝夫センセイが女子高生への「淫行」で逮捕されたッ、というのである!

毎日新聞あたりは本日の夕刊に載せたりしたようで、おそらく「朝夫who?」ということでググってみた方たちが、このブログに誘導されてきたようなのだな。

で、オレの一連のエントリーを読んでいただけた方はおわかりと思うが、オレ的にはこの方は地震とか原発のことは全然わかってない人だという確信があるし、そういう意味ではこれまであンまり感心しない方法で身過ぎ世過ぎをしてきた人ではないか、と思ってはいたんだが、ただなぁ、(現時点では容疑者であるとはいえ)こういう破廉恥罪でお縄を頂戴する人とは思っていなかったゾ。そこまでやりますかッ、みたいな。

まぁ本当のところは司直の手に任せて解明していただくほかないのだが、なんというか、哀れを感じるなぁこの一件。「世の中ちょろいちょろい」とかいって、勘違いしちまったのかなぁ。ともかくも「震災の孤児養育に役立てるので」とかいって始めた例の課金ブログの実態なども当局にはシッカリ捜査していただきたいものだと個人的には思っている。  ・・・合掌(って何のこっちゃ)。

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プリンタ選び [物欲]

プリンタはキヤノンのip4100というのを使っているのだが、無線LANでつながらんし、なんかここんとこペーパーに汚れついたりそろそろ危なくなってきたみたいなので、新しいのを買おうかと検討を始めた。

が、調べてみると、なかなかプリンタ選びは難しい。

黒い文字クッキリがお好みならばキヤノン、ということらしい。というわけで売れ筋のMG6330あたりがいいかなーと思ったのだが、ネットで評判をみるかぎり、「五月蠅い」とか「インクがすぐなくなるし、やたら高い」とか、もう散々である。それにデカすぎるし。

ならば写真画質で売るエプソンかナ、と調べてみると、こっちはEP-805Aなる機種がオススメらしく、キヤノンよりちっちゃいし好感がもてるのだが、しかし、インクがやっぱり高い。ランニングコストはキヤノンより悪いのではないか、というようなことが書いてあったりする。

前々から言われていることだが、こうした機種は、簡易フラットベッドスキャナ付きで2万もせずに買えるようになっており、つまりハード的には安くなったものだ結構けっこうと思ってしまうワケだが、実は上に述べたように、インクひとそろえ買ったりすると、もうそれで5000円とかバカみたいなカネをとられる。つまり、ひところの0円ケータイみたいなもので、連中はランニングコスト=インク代で稼がせてもらいます、というアコギな商売をしているのだった。

いや、こっちはプリンタ大事に使うから3万ぐらい出してもいいんだ、そのかわりインクは数百円単位で売ってくれよ、というのがマトモな人間の発想であろう。そういうマトモな声をキヤノンもエプソンも無視しているんである。

とゆーか、割安の筈のハード=プリンタだって、いろんなレビューみると、安くてペコペコの素材でも使うようになったのか、「むかしよりうるさくなってんのはどういうことだ」的な悪罵の声も目立っておるゾ。安い安いと喜ばせておいて、実はハード自体も「ま、しょせん安く売るわけだし」的に手抜きによる劣化が進んでンではないのか。


何か、「良心的なショーバイ」というのが日本ではだんだん立ち行かなくなってるような気がしてならんのである。キヤノンよエプソンよ、口裏合わせた談合みたいな、そういう商売はやめてくれないだろうか。

と腹をたてていたんだが、改めて別の選択肢はないかと考えてみたところ、どうやらブラザーがそこそこ使えるプリンタを出しているらしいと知った。じっさい、ハードも別に高くないし、インク代は両社に比べるとかなりの割安で済むらしい。

ふむ、むろんネームバリューでは2社にかなわんので「ウチは真っ当な商売させてもらいまっサ」というスタンスで差別化をはかっているのであろうが、とにもかくにも「第三の勢力」、ないではないワケだ。

印刷物のクオリティだけでいえば、2強にたいしてなかなかアドバンテージをもてない風ではあるんだが、その心意気、オレは買いたいッ。・・・といいつつ、ま、ホントに買うかどうかはワカランのだけれど(笑)、少なくともプリンタ選びではブラザーも選択肢にいれとかにゃならんだろうな、というところまでは来たオレである。

クルマでいうと、トヨタ、日産はどうもつまらん、どっちかっつーとスバルがいいなー、いやちょっとひねって大衆的な外車でゴルフも捨てがたいぞ、というオレ的感性からいうと、ブラザー、けっこう悪くないかもしれない。

ちなみに、これが1万ちょっとで買えるブラザーのプリビオ DCP-J940Nである。どうであろうか。
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