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差異で資本主義は駆動する [NEWS]

アフリカ開発会議とやらが終わったようだ。

オレはつねづね言っているように経済オンチなのだが、しかし、中国だベトナムだ、そして今度はアフリカだ、といった具合に、先進諸国の資本が次々にそれまで「後進国」だった地域に入っていって、工場を建てたり商品を売り込んだりして経済を回しているのをみると、つまり「差異」こそが資本主義の原動力なのだと改めて思うのだった。

つまり、先進諸国から比べると安~い人件費で働いてくれる人がいっぱいいる地域、先進諸国ではだいたい欲しい人に行き渡ってしまったクルマやら家電製品がまだまだ求められている地域、そういう格差があるからこそ経済活動が駆動していく。

ビンボーで購買力もないと見限られていた地域が、先進国でモノが売れなくなってみれば、逆に無尽蔵の可能性に満ちた場所にみえてくる。そういう仕組みなのだとオレは自分勝手に理解している。

だが、中国が一気に金持ちになってしまったように、「未開の秘境」と先進国の差異は急速に消費されてしまうのである。切り札のアフリカまで召還されてしまって、さて、そのあとはどうするのだろう? グローバリズムとやらでのっぺらぼうになってしまった地球で資本主義はどうなってしまうのだろう? やっぱり意味のない蕩尽=戦争でもおっぱじめるしかないのだろうか? 年来の疑問であるのだが。


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「クールジャパン」という大いなる勘違い [NEWS]

「クール・ジャパン官民有識者会議」みたいなのができて、秋元康あたり(笑)が「クールな日本を売り込もうッ!」みたいなギロンをしているのはよく知られているところだ。ネットをみてると、国が500億円出して官民共同の新会社「クールジャパン推進機構」(仮称)を設立する構想、なんてのもあるらしい。

で、何かこういう動きをみていて思うのだが、こういう仕掛けはいったいどうなのか。

つまり、なんつーかお役人たちの頭ン中では「日本のアニメとかテレビ・映画・ショービズのコンテンツビジネスでガッポガッポ」みたいな目算があるような気がするンだが、そういうのはあくまでも「小商い」みたいなもの。外貨を稼げるとしてもせいぜい年間ウン百億円単位ではないのかナ? 経済は疎いのでよくわからんけど(笑)。

こういう文化絡みの国家戦略というのは確かにあっていいのだが、「商売」として考えるのは違うと思うのだ。

よく言われることだが、戦後の日本では、アメリカのテレビシリーズ「パパは何でも知っている」みたいなのが流れて、「あぁアメリカって豊かだなースゲエなー」とかいって日本人が恐れ入ってしまったのだった。おそらく金銭的なことでいえば、あの番組作った人間が大もうけできたわけでもなかろう。


つまり、カネ勘定を超えて、外国の連中に「一目置かせる」とこにこういう文化戦略のキモがあるわけで、そりゃハリウッドレベルになるとショーバイでも通用するんだろうが、「クールジャパン」にそこまでのポテンシャルはないだろうよ。

アラブの子どもたちが「キャプテン翼っていいよなー、あれって日本が作ったんだってなー」とか話し合う、それで十分ではないのか。

お役人はそういうところに金づるを見出そうという発想をやめてほしい。やることがあるとすれば、むしろ安月給で疲弊しきっている末端のアニメーターたちを何とかしてやること、ではないか。



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橋下徹のフーゾク発言 [NEWS]

橋下徹がこういうことを言ったそうだ(意訳アリ)。

「軍人というのは性的衝動をバクハツさせてやらんと暴発する人たちなのさ。で、日本の従軍慰安婦の制度っつーのは、軍が関与して運営したり拉致してきた女性を働かせたという証拠はないワケだから、つまりフツーの売春システムだったわけでしょ? そんなもんだったら世界中の軍隊周りでフツーに存在してきたんだよねー」

「そういうわけなので、在日米軍の皆さんも犯罪を犯すまえにフーゾクにいって発散してください」

前段は、まぁこの辺に詳しい秦郁彦あたりに言わせればほぼ正しいことを言っているようだ。しかし、日本の従軍慰安婦というのは英語だとwartime sex slaveとか訳されて流布しているよーなので、グローバルスタンダード的には「よくよく考えりゃオレたちの国の軍隊にもそういうのあったんじゃねーか?」的に胸に手を当てる輩などいる筈もなく、「Oh、日本の政治家ガ、sex slaveハ必要ダト言ってるYO!」という風に理解されるのであろう。

政治家というのはよく言われるように「結果責任」の世界に生きているわけだから、こういうリアクションが当然想定される以上、じゃあどうやってケツを拭くか、まで絵を描いた上で発言せねばならんだろう。しかしオレなぞにはこういう事態をどう収めるのか、全然わからんぞ。たぶん橋下氏もそんな先まで考えて発言していないのではないか。

で、後段の「米軍のみなさんもフーゾクに言ってネ」発言であるが、こういう発言というのは、なんか会社のイイ年をした上司が若手社員に向かっていうような、「チミも最近たまってるンじゃないかネ、どうだ、ソープにでも行って抜いてきたら」的な発言をホーフツさせるものがあり、つまり極めて下品である。

確かにそういう世界に救われている人間がいることも事実であろう。西村賢太が小説で描くような「ビンボーの極にありながらソープ貯金だけは欠かさず続けているような男」というのも確かに実在するだろうし、そういう人間の哀しいサガのようなものにオレはとても共感する。

であるけれども、選挙で選ばれたエライ政治家の方が、そういうぶっちゃけトークで「一本抜いてきたら」的発言をするのは流石に品がなさ過ぎるのではないか。ホンネはどうあれ、「フーゾクって助かるよね」なんぞと言っちゃいけないんではないか。

なんかその辺、日本にはどんどんオトナがいなくなってるんだなーという感慨も抱く。確かに「王様は裸だ」とかいってオトナの世界の欺瞞を衝くのは気分が良いのかもしれないが、そんなこたぁとうにわかってるンだけどとりあえず今この世界を崩壊させないように頑張っているオトナというのも必要といえば必要なのだから。


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日本人はイイカゲンである [NEWS]

確か数年前だと思うのだが、いま楽天イーグルスの監督をしている星野仙一が、新入社員の「理想の上司」アンケートで上位に入ったとかいって話題になったことがある。

星野仙一といえば、まぁ最近はどうか知らんが、何かっつーと選手に鉄拳制裁をふるった粗暴(笑)な男として名高い。しかし、どうなんだろうか、少なくともプロ野球ファンの間では「闘将」とか呼ばれて、総じていえば尊敬されてきたのではなかろうか。

それが、ここにきて例の女子柔道の暴力問題、である。スポーツであろうが何だろうが、とにかく体罰はイカン。一気にそういう空気になってきている。オレはこういうところに何か違和感を感じる。じゃあ、ほんの数年前まで「星野仙一の指導を受けたい」とか言ってた、おそらくは相当な数の人たちはどこに行ってしまったのか、不思議でならない。「いや、鉄拳制裁アリでしょ」という声がほとんど聞えてこないのは、どういうことなのか? そう、そういう人たちは今は口をつぐんでいるのである。

いや、別にオレも「スポーツの世界なら脅したり手を出したりするのはOK」と言いたいわけではない。そうではなくて、こういう風に、社会の流れとゆーか時流とゆーか、そういうものの潮目が見えてくると、突然それまで言ってたことを「撤回」してしまう人がどうしてこうも多いのか、そこが面白いと思うわけである。

まぁしかし。よく考えると、先の戦争のあとだって、多くの日本人は昨日まで「鬼畜米英。神国日本」とか叫んでた人が、今日は「アメリカ万歳。民主主義万歳」とか言い出したのだった。こういう変わり身の早さはたぶん我々の伝統(笑)なのだろう。

つまり、本当は「体罰是か非か」みたいなことはどうでも良いと思っていて、自分の信念に照らして特定の意見をもっているワケではない。ただみんなそっちに流れていくから、自分もそっちの方に流れていくわけで、それで良いし別に問題はない。おそらくみんなそんな風に考えているのだろう。

ただ、一言いっておくが、オレは別にそれが悪いとは思っていない。ひとつ譬え話をすれば、この国では理念と理念がぶつかりあって殺し合いを繰り広げるような、たとえば宗教戦争のようなものはほとんどなかった(仏教受容の際に内乱めいたものがあったという話はあるけれども)。「オレの理念は譲れん」といって徹底的に戦うというのは格好イイような気もするが、ある程度のところでなれ合ってナアナアでまとめるというのは人生の知恵といえば言えるのかもしれない。

結論としていえること。日本人というのは実にイイカゲンな国民である。良いこととは思えんが、さりとて悪いとも言い切れないのがつらいところ。

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峯岸みなみ問題に思ふ. [NEWS]

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AKBの峯岸みなみさんが、AKB御法度の異性交遊(笑)を犯してしまったので「ごめんなさい、反省のしるしに坊主刈りにしますので許してください」といってyoutubeに登場した件について、一言。

いやあ、実にオモシロイ。というのも、こういう「醜聞」さえも、このAKBという課金システムは話題作り―ネタに回収していくのだなあというのを改めてみせつけてくれたから。もちろんこないだの指原の「異性交遊+左遷=メディア大騒ぎ」という展開の再現ではあるけれども。

そもそもAKBをめぐる空間というのは、ひとつの、とても良くできた小宇宙をなしている。何十人もの少女たちを集めて競わせ、「売れる―売れない」を軸に、いわゆる「センター」から地方組織・研究生へと広がるヒエラルキーを作り上げ、そこでの個々のふるまいが全体として大きな物語を構成している。AKBは宗教だ、みたいなオモシロイことを言った人がいるらしく、オレはその本を読んでいないが、確かに宗教にはあらゆる存在の根拠を説明する統一的な宇宙観を示すはたらきがあるので、そういうダイナミックな小宇宙を創造している点ではコイツは宗教なのであろう。

そしてその小宇宙には、どういう根拠があるのかはしらないけれども、何故か誰も疑うことの許されないルールがある。「ファン投票で序列を決める」というのがそうだし、「異性とナニしてはいけない」というのもそうだ。何でかはわからない。しかしその宇宙の根源的ルールを疑いだすと、もうAKBという神々の鎮座する喜ばしき世界を楽しめなくなるので、そこに参入しようという人間はソレを疑ってはならない。

で、おそらく秋元某というこの世界の造物主は「ではそういう神々の舞台でお前は何を提供できるのか? どんなネタをもってきてくれるのか? さぁ考えろ」という洗脳をみなさんに施しているのだろう。彼女たちはそれで必死になって自分なりの物語を考える。「振り付け」は、たぶん彼女たち一人一人が考えているのであってお仕着せではない。そこにはそれなりのリアリティも発生するし、だからこそファンもその世界に絡め取られていく。

で、たまさかそのルール=タブーに抵触するようなふるまいがあっても、この世界は微動だにしない。そう、彼女が人気者で、そこで「期待されるふるまい」を演じきれるような人材であったら、そういうふるまいもAKBの小宇宙における「ちょっとした事件」として消費するシステムができあがっているから。

じっさいに峯岸さんは、「こういう時にはどうふるまえばいいのかナ? 反省しないといけないんだろうな。どうすればいいのかな? ああ、坊主にすればインパクトあるよね」というシナリオを無意識的に思いついてしまったのではないか。もちろん取り巻きのスタッフが「坊主なんてどう?」とそそのかした可能性もあるが、そこで峯岸さんは「あ、いいねソレ」と自ら賛同したに違いないとオレは思う。いかなる状況でも何かそこから物語を紡ぎ出せないかと考え続けるエンターテイナー。秋元イズムの正しき後継者。

いわば、すべては壮大なるお芝居なのである。そこでオレたちは「坊主刈りに追い込むなんて、なんて非道い!」みたいなトンチンカンな反応をしてしまうのだが、それも思うツボ。彼/彼女たちにとってはそういう世間さまの反応も織り込み済み。

そもそも異性交遊が本当のタブーだったら、問答無用でAKBの王国から完全に放逐すればいいのだ。なぜ峯岸さんはそうならないのか? それはたぶん、そういうシチュエーションでひと芝居打てる人材だから。オレはよく知らんが、これがメンバー最下層の売れない子、そこでストーリーを紡ぎ出せない子だったら容赦はしない(そういう子は週刊誌になど狙われないだろうけど)。

いってみれば、実は筋書きや落としどころが決まっている昭和プロレスの世界。悪いとはいわない。オレも馬場や猪木のプロレスは好きだったし。だから楽しめば良いのだ。いつかこの小宇宙のしかけが見切られ、見捨てられてしまうまで。


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女子柔道の園田隆二監督は悪者か [NEWS]

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さて、女子柔道の監督が、「監督に暴力をふるわれたッ」といって選手たちから訴えられた一件が話題になっておる。

なんか、ここンとこ「スポーツの指導だからって体罰振るっちゃマズイでしょ」という世論が盛り上がりつつあって、これなんかもそのトレンドに棹さすエピソードだと思うのだが、生来のヘソマガリなので、ここは敢えて「そんなにマズイことなのかネ」と主張してみたい。

まず今回の一件で気になるのは、選手たちが「おおそれながら・・・」といって訴え出たのが昨年9月だったという点である。つまりロンドン五輪のあと。もちろん彼女たちにも釈然としない思いはずっとあったんだろうが、しかし五輪の後までは堪え忍んだ。これはどういうことかというと、ま、五輪を前に内紛めいた話が浮上するとまずかろうというオトナの分別を働かせたという面はあるんだろうが、ともかく五輪が終わるのを待ったというところには微妙な心理のアヤがあったように思われる。

以下はオレの推測になるんで反論もあると思うのだが、そこではたぶん、選手たちのこころの中にこういう意識が働いていたんではないか――あのバカ監督のヤロー、さんざん殴りやがって・・・ホントにアイツについてったら、あたいら勝てるのか? うー、わからんなぁ。でもああいうシゴキに耐えてきたんだし、やっぱ勝てるような気もするんだ。とにかく五輪だ五輪、ガンバロー!

ところが五輪が終わってみれば、女子柔道は全然ダメ。結果は残せなかった。選手たちの憤懣はつのったことだろうよ。「くそー、アイツのこと信じてここまでついてきたのに、全然通用しなかったじゃねーかヨ。殴られ損かよ! クソー、腹立った、訴えてやる~」みたいな。

まぁかなり憶測が入っている。しかし、オレには前から思っていたことがあって、たとえば女子のマラソンの小出監督と教え子たちなんかが典型的なんだが、スポーツの女子選手というのは「コーチを100パーセント信じてついていく」みたいな一種の信仰めいた世界というか、ほとんど擬似恋愛みたいな世界をくぐりぬけないと能力を発揮できないところがあるンではないか? もちろん「女子に手を挙げるのは如何なものか」という「良識」も一方にはあるんだろうが、逆のベクトルで「シゴキもコーチの情熱の一部だ」という言い訳が許される素地も用意されているんではないか。

で、最終的に結果がでれば、このコーチに対する信仰あるいは擬似恋愛は「よかったよかった」で大団円。でも一歩裏目に出れば、ふと正気に返って「あれ、あたいたちってば騙されてたのと違う?」という話にもなりかねない。これまではそういう意味でさほど破綻のなかった女子柔道ではあったが、今回、みごとにこの後者のパターンにはまってしまったのではないか。これがオレの仮説である。

以下、そういう仮説の上での話である。勝てば官軍、負ければ地獄。確かに結果を出せなかったのではあるが、だからといって遡及的に過去の「厳しい指導」が「ありゃまずかったよネ」と否定されるのはフェアでないンではないか。だって、そのシゴキが行われていた時点では、「これは絶対マズイ!」みたいな問題意識は関係者一同、全然共有してなかったわけでしょ? 少なくとも、「ま、スポーツにはこれぐらいのシゴキがあっても仕方ないかもネ」あたりがコンセンサスだったわけで。

さらにヘソマガリなことを言わせてもらうのなら、桑田真澄あたりが「シゴキでは一流選手は生まれない」みたいな正論をいってココんとこ喝采を浴びているようなんだが、オレの認識では、超一流のアスリートのほとんどは野生の動物に近い存在であって、ムチを入れれば反射的にパワーを発揮する生き物である。理性とか悟性による指導は、まぁ並みの選手には通用しても、こういう超一流の素材には通用しないと思ったほうがよかろう。桑田なぞはなまじ頭が回るものだからああいう正論を語ってしまったのだが、プロ野球の中でも桑田みたいなヤツは例外と考えたほうが良い。

ことほど左様に、一流アスリートの連中というのは我々のツマラン常識でははかれない化け物なのでアル。いつも言っていることだが(ってそんな熱心な読者はいねーヨと自ら突っ込んでおくw)、そういう世界にクビを突っ込んで常人のジョーシキを振り回すのは愚かなことである。

とゆーわけで、全柔連あたりが今回の件で「まぁそんなに致命的なことじゃねーだロ」的なリアクションをみせているとゆーのも、そこにはそれ相応の暗黙知とゆーか、ロジックがあるはずなのだ。もっとも柔道界のエライ方々にしてみれば、「柔道選手はキホン筋肉バカなので、そういう理屈では動かンのです」みたいにぶっちゃけた話をするわけにもイカンのだろう。苦しいお立場であろうと同情申し上げる(笑)。

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教育再生実行会議に教育学者が一人もいない件について [NEWS]

安倍首相は「日本の教育を何とかしたいッ」という思いが強いらしく、「教育再生実行会議」なるものを立ち上げたのだという。その初会合が今朝の新聞で報じられているんだが、ここに登場する有識者メンバー15人のなかには、実は教育学者がひとりもいない。

まぁ曽野綾子とか、ガチガチの保守論客(笑)みたいなのはいっぱい入っているので、こういうところは、いぜんの安倍政権が「おともだち内閣」と揶揄されたことへの反省はあんまりないようだ。

で、話をもとに戻すけれども、うむ、こういう場に教育学者が呼ばれないというのは、ひとつには教育問題の特殊性が一役買っているのだろう。

たとえば「集団的自衛権についてのあなたのお考えは?」とか聞かれて、滔々と弁じ立てることのできる人間は、たぶん日本国民の1パーセントもおるまい。ところが「いまの教育についてどうお考えですか?」とか聞いたら、100人が100人、それっぽいことを語れるだろう。そう、誰だって学校には行ったことがあるから、誰だって実体験に即した何らかの思いというものはある。バカでもチョンでも教育には一家言ある、という風にいえるのかもしれない。

しかしなぁ、だからといって、こういう問題にかんしては専門家は要らない、というところまで行ってしまうのはどうか。功成り名を遂げた経営者とかが「そもそも教育とは」みたいに語ったって、そりゃバイアスが相当かかっているのは明らかなんで、やはり客観的に全体を見通すことのできる専門家はいなきゃならんだろう。

そういえば読売新聞などはこの年頭に「甦れNIPPON」なる企画を打っておったが、 たしか「プロ軽視の大衆社会」とかいって、専門家の知見を大衆がバカにするポピュリズムめいた風潮に警鐘をならしておった。そういう視点からいうと、今回の教育再生実行会議の有識者の顔ぶれというのは、ホントまさにそういう風潮の象徴といえるんではないか。読売でなくてもよいから、「さすがにこういう会議はマズイんじゃネ?」的な議論を提起していただきたいものである。
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150万円の誘惑 [NEWS]

政府が「役人の待遇を見直すから消費税アップの件はよろしく」と言い出し、その流れで地方公務員の退職手当を削減することにしたんだが、その結果、埼玉あたりで「退職手当が削減される前に早期退職します」という学校の先生たちが相次いで「卒業式前に無責任じゃねーかコノヤロー」という世論が盛り上がっている、らしい。

確かにいまのうちに辞めれば150万円ほど「オトク」になるらしいのだ。さて、コイツはどう考えたらいいのか。

「教師のクセにカネに転びやがって!」というのが大方の反応であろう。わかる。まぁ教師への信頼というのはかなり揺らぎはじめているけれども、やはり教育に携わる者には、どこか大義とゆーか理想とゆーか、タテマエにとことんこだわって欲しいものだ、という気持ちはわれわれの中にまだある。「卒業直前の子供を見捨てるとは不届きデアルッ」と、ひとまずは言える。自分の子供の担任がこういうふるまいに出たら、もうガッカリである。教育地に堕ちたり、と嘆きたくもなる。

しかし。よくよく考えてみると、現場の教師とかの身になってみると、これはけっこう「究極の選択」であるのかもしれぬ。目の前に150万円。これを取れば「生徒を見捨てたナ」と罵声を浴びることになる。じゃあ、やせ我慢して取らずにおくべきか。しかし150万円というのは庶民にとってはけっこうなカネだ。150万円を「そんなものいらねーよ」といってドブに蹴込むことができるか。ま、少なくともオレだったらかなり迷った末にカネを取るような気がする。そして、オレ以外の人間に対しては「おまいらはカネは取るな」と説く(笑)。

つまり、こういう事例ではどうしたってカネに転ぶ人間は出てきてしまうのである(とゆーか、そういう人間が全然出てこないようだったら、その社会はけっこーコワイような気さえするゾ。全員が洗脳された社会みたいな感じで)。つまり、フツーの人間が生きている社会では、そういう金銭的なインセンティブによって大なり小なりヒトは動かされてしまうわけで、そのあたりは経済学が教えるところである。それはしょうがないことである。逆に言えば、150万に転んで「退職シマース」という人が大量に出てくることは最初から見えていたのだった。

もちろんヒトはいつでも「究極の選択」を強いられる可能性がある。大げさなことをいうなら、船が転覆して救命ボートがひとつ。乗員は8人生存しているが、ボートに乗れるのは7人。さてあなたはどうしますか、みたいな局面である。あるいは原発事故でもよい。ほっとくと原子炉が大爆発するんだが、いま決死隊が突入すれば何とか止められるかもしれない。そこで「いま行くとアンタは絶対死ぬ。でも行ってくれれば何百万人が助かるんで、行ってくれ」と頼まれたらどうするか。あるいは逆に、突入隊員の候補者に「アンタ行ってくれ」と頼めるかどうか。

そこで普遍的に正しい答えなどというものはない。そんな事態に直面した人間はとことん困ってしまう。だからこそわれわれの社会は、そういうどっちに転んでも後味の良くない「究極の選択」などしなくて済むように知恵をしぼったり、あるいはそういう選択が必要な局面など「そもそもありえないのだ」ようなフリをしてどうにかこうにかここまでやってきたのだった(もちろん上の原発事故の事例みたいに、もうどうしたって究極の選択をせざるを得なくなる局面はあるんだが、それはまた別の話)。

そうすっと今回の一件で一番反省すべきなのは、実はこういう二者択一を教師ひとりひとりに強いた政府なのではないか。どんな人間も持っている醜い一面を直視するのは辛いから、われわれは「そんなものはない」と否定するフリをしながら毎日を送ってきたのに、今回政府は教師たちに踏み絵をふませ、追い詰めてしまったことで「イヤやっぱり醜いものはある!」という事実を臆面もなくわれわれに突きつけてしまったのである。結果的に、ではあるンだが。

そういう人間の暗部を直視するような仕事は、本当は文学とかに任せておけばよいのだ。政治というのは、もうちょっとナァナァで、矛盾を矛盾と感じさせずに諸問題をうまくハンドリングしていくような営みなのではないか。「政治には理念や哲学が必要だ」みたいな議論もあるけれども、そこにはおのずから自制というものがあって然るべきなのである。安倍君にはそういう政治の機微みたいなものもゼヒ勉強をしていただきたいところなのだが、さて。
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選挙戦。何となく耳に心地よいけどよくわからんコトバ [NEWS]

というわけで、12月16日に総選挙投開票である。NHKなどみているとのべつ幕なしに政見放送を流している。まぁしかし、そういうのを見ていると、改めて選挙のコトバというのは軽いなぁと思う。

どういうことかというと、たとえば、ほとんどの人が「なるほど、その通りだ」と思ってしまうようなマジック・ワードというのが選挙活動にはつきもので、たとえば「地方分権」「官僚支配打破」みたいなコトバだ。

でも、よくよく考えると果たして「地方分権」というのが万能の錦の御旗かというとそんなことはないのだろう。とりわけ日本の社会というのは同調圧力がとても強い。地方分権で地方に権限を委譲しましょう、というスローガン段階なら「いいですよ」という人も、たとえば他の県とかでイロイロ面白いことをやりはじめたら「如何なものか?」と言い出すのではないか、という話である。

「外国人に地方参政権を与えます」「県立高校では中国語を必修科目にします」とかね、そりゃそういうのは法律改正とかも必要であろうし多くの住民が賛成するとは思えない話ではあるけれども、原理的には地方分権というのは「地方のことは原則地方で決めるべきである」ということなので、たとえば隣県とかでこういうことを断行しても全然ワレ関せず、というのがスジである。たとえば「わが州には死刑制度はありません」みたいなこともあるアメリカみたいなものを考えればいいと思うのだが、俺たちはそういう風に鷹揚に構えていられるだろうか、と思うのである。

「官僚支配打破」とかも、みなさん原則OKということになるんだろうが、役人が諸悪の根源であって、給料も減らせ権限も減らせドンドン叩け、みたいなとこまでいって仮想敵扱いになっていくと、さて、これから役人になろうなどと考える人間なんていなくなるンではないか。あるいは「革命さえなければ職だけは安泰だろうから、やる気はないけど公務員にでもなるか」みたいな連中の巣窟になる、とか。

なんか浮ついたムードに流されずに、本当にスローガンのめざすものを見据えているか。自戒すべきとこでもある。
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総選挙前のしっちゃかめっちゃかに思う [NEWS]

何かよくわからん政党が乱立して合従連衡をはじめたのだが、さて、われわれはどういう基準で政党を選べばいいのだろうかと思うきょうこのごろ。自分の考えを整理するための、以下、チラ裏。

確かにむかしは単純で良かった。「資本主義体制でよろしい」か、「資本主義には問題が多いので何とかしろ」なのか、そういう選択の基準がハッキリしていたのだった。

冷戦終結後はそういうイデオロギー対立みたいなものは後景に退いたわけだが、なお右と左の対立は後を引いているところもないではない、と思う。

わかりやすいのが経済政策であって、乱暴に言ってしまえば「政府は民間の経済活動とかにあんまり口だしするな。税金も減らして、とにかく市場経済キホンにやってけばうまくいく」というのが右派。いわゆる「小さな政府」論である。対して「政府がいろいろ口だししないと、貧富の格差なんかも広がってしまうので、税金もそこそことって、再分配を積極的にすすめるべきだ」というのが左派。相対的にいえば「大きな政府」論ということになろう。

もっとも、ここでは経済的自由主義=右派という話をしているが、少なくとも日本で一般的に右派といわれる人たちは「君が代を歌いなさい!」とかいって国民にいろいろ命令するのが好きな傾向があるので、「小さな政府」といっても「何でもかんでも放任」というわけではない。そこんとこは注意が必要である。

閑話休題。日本では、自民党VS民主党が拮抗して政権交代をしやすくするのがいいのではないか、とかいって衆院の小選挙区制とかができたワケで、ふつうに考えると、どっちかが「小さな政府」主義で、もう片方が「大きな政府」主義ならわかりやすくて良かったのである。

ところが現実はそうなっていない。

旧来の自民党は、まぁ右派といえば右派だったのだが、キホン経済界の代弁者でありながら、ほっとけば市場経済の中でやっていけない人たち――たとえば農家なんかに対しては個別に「再分配」を施したり「保護」をしてやったり、つまりリソースの再分配ということでいえば左派的なこともけっこうやっていた(相対的に声の大きい=票を期待できそうな農業団体みたいなとこにだけ、そういう特別な便宜をはかっていた、ともいえるが)。つまり自民党というのは思想的にいえば一枚岩というのではなくて、けっこう右派から左派まで幅広い主張をとりこんだヌエのような存在だったのである。だからどっちでもアリなのである。

一方の民主党であるが、これも決して「左派」とは言えない。もちろん旧社会党から流れてきた人も多いので、その点は左派系もけっこういるんだろうが、一方で野田総理みたいに「松下政経塾」あたりから来たのは、基本的に「小さな政府でよろしい」という人たちである。けっきょくこっちも寄り合い所帯なので、思想的には一枚岩ではない。

というわけで、もともと自民VS民主の二大政党制とかいっても、リクツというか理念のレベルではぜんぜん区別がハッキリしていなかったのである。まずそういう不幸があった。

今回の総選挙についてみても、TPP=自由貿易については、党内に異論もあるけれども民主の野田は「すすめる」といっているので「右派」になるだろうし、「慎重にしろ」という自民党は「左派」になってしまう。市場=経済合理性を重視すると「原発は必要」という話らしいので、すると原発に相対的に慎重な民主は「左派」、原発に甘い自民は「右派」。なんかスッキリしないのである。まぁ消費増税についてもひと言いっておくと、基本的に増税=再分配は「左派のロジック」になるわけだが、さすがにほっとくと国家財政マズイぞというのは右も左もない、ともいえる。

というわけで、比較的わかりやすい「大きな政府」VS「小さな政府」みたいな軸でさえ、どっちがどっちなのかよくわかんない。強引に単純な図式を作ってみると「TPPも原発もOK。ただし消費増税はダメ」、あるいは「TPPも原発もダメ。しかし消費増税はOK」というのが一番理路整然としているんだが、そういう政党はなかったのではないか?

オレは当然、「TPPも原発もダメ。しかし消費増税はOK」という立場なのだが。さて、そういうオレはどうすればいいのか?

P.S.

とはいいながら細かくみていくと、ここまでの話にはイロイロツッコミどころもあるのは自覚している(笑)。市場主義を貫徹させよ、というのがここでいう「右派」なのだが、一般的にはそういう立場からは「原発→安い→OK」ということになって、原発は肯定される。しかし、本当に原発が「安い」のかというと、何万年も放射性廃棄物を安全に管理していくとして、そのコストまでもコミで本当に「安い」のか、素人のオレにはどうにもギモンである。確か一橋大の斎藤誠さんは、市場ベースで実は原発は割にあわない、みたいな議論をされていた。

あと、別に「大きな政府」か「小さな政府」かで軸を決めねばならない、というキマリがあるわけはなくて、たとえばこのたび脱原発を旗印に発足するという「日本未来の党」などは、「経済性だけで原発OKというのはよろしくない、地球倫理の立場からして原発は認めてはならないのだ」みたいなことを言っているらしい。こういう主張にもオレは何となく打たれるものがあって、つまり仮にオレたちの世代というか、100年ぐらいのレンジでみれば原発は「安上がり」になるのかもしれんが、何百年先の子孫に「核のゴミよろしく♪」とかいって、何の承諾もなしに(笑)厄介モノを押しつけて我が世を謳歌、というのは倫理的にみてどうよ、という主張もけっこう説得力があるような気がするのである。



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