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大津いじめ事件とフジテレビと朝日新聞 [天声人語]


というわけで大津いじめ事件である。

いじめを受けていた中学生の少年が自殺したのだが、いじめとの関連性はよくわからないといって頬被りを決め込もうとしていた市側が民事訴訟を起こされて、で、学校側はどうもいじめを認識していながら手をこまねいていたのでは、という疑惑が持ち上がっている、そういう話である。

で、ネットワールドではしばしばあることだが、ここにきて、いじめをしていたとされる少年の実名などがウェブ上に広まりつつある。とりわけ、きのう6日朝のフジテレビ「とくダネ!」で自殺少年の遺族の裁判用の準備書面として作成された「同級生たちへのいじめアンケートのまとめ」が映された際、墨塗りが薄かったということなのだろう、おそらく録画画像を精査した連中によって「いじめっ子」の名前が割り出され、ネットに流されたというのがひとつのポイントになったらしい。

で、朝日新聞はきょう7日夕刊(首都圏版)で、このフジテレビの話を記事にした。この番組で少年の実名が広がっている、こいつは憂うべきことだ、というトーンである。

しかし、これは朝日新聞、まずいだろう。

もちろん、この自殺がいじめによって引き起こされたものである可能性は高いのかもしれない。しかし、「いじめっ子」の名前がネットで広まるというのは、少年法の精神からいって明らかにマズイ事態である。

そういう状況にあってストレートに「フジテレビがこんなチョンボをした」と記事にしたらどうなるか? ネットユーザーだって、別にこういう情報があふれかえっている2ちゃんねるに始終目を通している人間ばかりではなかろう。いや、絶対数からいえば、そういう連中はむしろ少数派。「ああそうか、そんな話があるのか、よーし、大津+いじめ+フジテレビで検索かけて調べてみるか」。そういう人間を大量に生み出すことは火を見るよりも明らかだ。結果、何にも知らなかった人間が「いじめっ子」の名前を知るにいたる。

いや、一部週刊誌みたいに「そういう少年法の理念とやらは偽善だから、別に表に出てもいい」というのなら話は別なのだが、天下の朝日新聞は少年法の理念を擁護する立場の新聞である。「フジテレビ、こんなことやっちゃいかんだろ」という一見正義の側に立っているようなポーズをとって報道するのは、一見スジが通っているようにみえて、結果的に生じるのはその少年に対する「人権侵害」の拡大ではないのか? 

そういう二枚舌のいやらしさが朝日の唾棄すべきところなんである。朝日の立場なら、このフジテレビの件は知っていても書いてはいけなかったのだ。少なくとも「人権侵害」を真面目に考えているのなら。けっきょく朝日新聞が喧伝したいのは「人権擁護の朝日新聞」という自己イメージを売り込むことであって、そのために現実に存在する人間が「人権侵害」を受けようとどうしようと構ったこっちゃない、ということなのだ。何という嫌らしさなのだろう。こういうところが体面だけを繕えばよい貴族主義の限界だというのだ。

いつも批判している天声人語とは違うンだが、やっぱり朝日新聞の醜悪さがかいま見えるという点では天声人語に通じるところがあると思ったので、敢えて糾弾しておく。


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甘ったるい自己陶酔 [天声人語]

昨日の天声人語は、また胸が悪くなるような独特の臭みがある最低の出来であった。まずはお読みいただこう(そのうちリンクが切れるだろうが、いちおうのお約束。ネット版はコチラ)。

 「ばからしい」と書きかけて「空しい」にしたことがある。書き写しを思ってのことだ。流し読みならまだしも、「ばか」と書いてもらうのは心苦しい。多くの方に筆写していただくお陰で、生来がさつな言葉遣いがいくらかマシになった気がする▼毎度の手前みそながら、昨年春に売り出された「天声人語書き写しノート」が累計100万冊に達したという。うれしい前に恐れ多い。人様に写させるレベルかと、自問の日々である▼北九州市立高校では、現代社会などの勉強に使っているそうだ。新聞を読む習慣がなく、小欄とは初対面の生徒さんも多い。慣れないコラム文の書き写しは苦痛だろうが、今春の卒業生は銘々3冊を「完写」してくれた▼集中力がついた、縦書きの字がきれいになった、社会への関心が高まったと、うれしい感想も届いた。「毎日よく続きますね」という問いは、皆さんにそのままお返ししよう。書くのも写すのも、一つ仕上げたら一つ腕が上がる▼よくある質問に「黒い逆三角形は何?」がある。段落を示す記号である。誰が決めたか逆三角が小欄の習いだが、ただの印だからたまにはルール違反を許してもらおう。ご愛読、ご愛写への深謝を込めて♥冒頭の空白を含め603字。短いとはいえ、写される文の大先輩、般若心経の倍はある。写経なみの御利益は請け負えないが、末永く続けていただけば某かの貢献、例えるなら小さなハートマークほどの「お返し」はできるかと思う。ご精進ください。

 

「天声人語書き写しノート」の宣伝である。書き写しを毎日するといろいろな効用がある、といいたいらしい。「人様に写させるレベルかと、自問の日々」といちおうは書いている。が、どうやらこれはホンネではないらしく、そのあとはもっぱら自画自賛。「書くのも写すのも、一つ仕上げたら一つ腕が上がる」「末永く続けていただけば某かの貢献、例えるなら小さなハートマークほどの「お返し」はできる」と自分で言っている。やんぬるかな(笑)。

で、どんな効用があるのかというと、これまた恥ずかしげもなく自分で書いているぞ(微苦笑)。

「集中力がついた」
「縦書きの字がきれいになった」
「社会への関心が高まった」

まぁ確かにこんな臭みのある文章を筆写するなどというのはおのれを空しうして集中しないとバカバカしくてやってられないから、「集中力がつく」というのには一理あるのかもしれぬ。内容はともかく、ひたすら文字を書き続ければ字がキレイになる可能性も否定はしない。

ただなぁ、「社会への関心が高まった」というのは如何なものか。これは何度も書いていることであるが、悪しき貴族主義に毒された「インテリ」が下衆な大衆に向かってご高説をのたまうというのが天声人語の基本的スタンスであって、そのバイアスまみれのご高説に「なるほど現代の社会はこういうことになってるのか」と感心している奴がいたとしたら、端的にいってバカである。

ああそれなのにそれなのに。「写経なみの御利益は請け負えないが」とか再びこざかしいエクスキューズをマクラに振っているとはいえ、言うに事欠いて「般若心経」を引き合いに出すとはどういうことか! この罰当たりめが! こんな駄文を般若心経と同じ土俵で比べる神経はもはや常軌を逸しているぞ。

このコラム、確か2人で交代で書いてる筈なので同一人物かどうかはしらんが、以前「クリスマス=どんちゃん騒ぎするお祭り」みたいな低レベルなことを書いていたこともあったし、宗教への根本的な無理解が目に余る。ある意味で写経をバカにしきっている。いや個人的にそういう意見をもつのはいいが、新聞が天下の公器であるのなら書きようもあるではないか? 誰も注意しないのだろうか?


まぁしかし「善意」で考えてみようか。こんな駄文をいくら書き写したってバカはバカのままなのである。いわば「イワシの頭も信心から」。「それでもやりたければおやんなさい宗教とおんなじだから」というワケで、あえて天声人語をお経と並べているのではないか? 「おい、おまえ天声人語書いてくれよ」とか偉い人に命令されて「えー? あんなもの書かないといかんのかー」と思いつつ、そうは言えないので、メタレベルでこのコラムのアホらしさを指摘している高級なレトリックとも読めるので、もうそうだったら、ふむ、このコラム子、ここにきてホントに「腕を上げた」のかもしれんぞ(笑)。




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朝日の社説を嗤う [天声人語]

今回は天声人語じゃなくて、けさの社説なんだが、あんまり脳天気だったのでコメントしておこう。以下引用。

吉田秀和さん―言葉の力を教えられた


 本紙で40年にわたり「音楽展望」を書き続けた吉田秀和さんが、98歳で亡くなった。

 柔らかい言葉を使いつつ、精密な分析と確固たる自分の見方によって、評論が一つの作品となるような道を開いた。

 それをなしえたのは、古今東西の教養に基づき、自由に、公平に、考えようとしたからだ。「展望」と名乗ったのも、広く見渡そうという意志だった。

 でも、読者はお気づきのように、吉田さんが批評するのは、クラシック音楽にとどまらなかった。美術はもちろん、宝塚やファッション、政治や事件、そして大好きな相撲まで、自由自在だった。

 若いときから中原中也や大岡昇平らと交遊し、一方で、小澤征爾さんや中村紘子さんらを育てた人でもあった。

 1990年度の朝日賞に決まったとき、吉田さんは「芸術が様々に分化していても、根底には感動を呼ぶ共通の源が厳然と存在すると思う」と話した。

 時代を広く見渡し、根源を問い続けていた。

 思えば、3月に亡くなった吉本隆明さんも立場は異なるものの、文学や政治、サブカルチャーまでを幅広く論じた。2008年に亡くなった加藤周一さんも「知の巨人」と呼ぶのにふさわしい存在だった。

 戦後社会で常に「自由」に価値を置き、世評におもねることなく、自分で考え、自分の言葉で語ろうとした人たちだ。

 知の巨人に続く世代は、どうあるべきか。

 芸術も産業も、技術は高度になった。だが、そこを論じるだけでは足りない。考える領域を広げ、知る喜びを伝える案内人の役割が、ますます重い。

 ネット社会が広がるほど、文化も、社会に関わる情報も、様々な境界を越える。現代的なやり方で、分野をこえて根源を問い、自分の言葉で考える努力を先人たちにならいたい。

 言葉にしにくい音楽に向き合ってきた吉田さんは「どんなことでも言葉にできる、という信念が僕にはあります」と語っている。別の機会には「音楽が聴こえてくるような文章を書きたい」とも。

 この、言葉への信頼。

 芸術や社会現象を歴史の中に位置づけ、それを体験した人には説得力のある見方を示し、そうでない人には疑似体験できるようにする。そんな評論を分かりやすい言葉でなしてきた。

 新しい「音楽展望」を読むことはもうできない。しかし吉田さんが残した問いを立て続けることは、私たちにできる。



うーん。吉田秀和はルネサンス的教養人で、何でもかんでも論じることのできる人物だから偉かった、そういや吉本隆明も何でもごされだったよね、そういう人間ってますます大事だよね、ということを言っているらしい。しかし、なんてゆーか、今頃そんな牧歌的なこといってるから、朝日新聞はいまだに古くさい教養主義の権化といわれてしまうのではないかなー。

確かに「幅広い知識」というのは大切であって、たとえばC・P・スノーがかつて「熱力学第二法則を知らないというのは、シェイクスピアをひとつも読んだことがないのと同じようなものだ」と喝破したように、「オレ文系だからエントロピーなんて知らないよ」というのは無責任、という議論はとりあえずは成り立つ。

しかしそういうことを言い出すなら、朝日新聞だって、たとえば統計学のイロハもわからないで統計ネタの記事書いてたりするわけであるから、まずは「隗より始めよ」で記者教育をしっかりやるのが先決ではないか。

いや別にそんな皮肉をいいたいわけではなくて、本当にいいたいのは、こういう時代にむりやりルネサンス的教養人出でよ、というのはかなりムリがあるんではないか、ということなのだ。

吉田秀和さんは相撲が好きだったそうだ。そうですか。でも現代を語るんであれば、相撲とかよりもプロレスを語れたほうがいいんじゃないでしょうか? あ、天声人語子の好きな女子サッカーも語れたほうがいいかもね。もちろん認知心理学とか超ひも理論とか、学問の話も語れないとダメだよね。

というのはもちろんホンネではなく、現代というのはもはや床屋政談みたいなものであらゆるジャンルをなで切りにするというのがムリな時代になっているのだから、そういう「知の巨人」待望論みたいなのは破産してんじゃないの、といいたいのである。

菅直人がフクイチの事故のときに何でも自分で仕切ろうとして批判されたのは記憶に新しいが、やはりそういう時は、スーパーマンではない、ごくふつうの人間の衆知を集めてどうにかこうにかやってく、というのが現代人に求められる流儀ではないのだろうか。

というわけで、いつもいつも思うのだが、朝日新聞には「時代を切り開く先導者というのは必ず必要だ。で、それは朝日新聞ッス」(笑)といいたくて言いたくてたまらない欲望があるらしい。もうそういうのやめようよ。




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祇園の事故と新聞コラム [天声人語]

とりあえず次の2ツの文章をみていただきたい(各段落冒頭の数字は便宜上小生が振ったものである。また原文のルビは省略した)

【その1】
①春らんまんの京都、祇園と桜の組み合わせで浮かぶのは、与謝野晶子の「みだれ髪」の名高い一首だ。〈清水へ祇園をよぎる桜月夜こよひ逢ふ人みなうつくしき〉。花篝に照らされる夜は華やぎ、幸福感に包まれた乙女は匂いたつばかり

②この季節、古都は宿の予約も難しいほど観光客でにぎわう。そんな昼下がり、満開の桜の下の、凍りつくような暗転である。祇園の繁華街で人の列に車が突っ込み、次々にはねた。7人が亡くなるという、痛ましい事故になった

③運転していた男性も死亡した。原因や事情はまだ明確ではないが、ときどき意識を失う持病があったらしい。軽乗用車ながらのこの惨状に、「走る凶器」ぶりを改めて思う。交通戦争と言われた1970年ごろは、年に1万5千人以上が落命していた

④去年は3分の1を下回ったが、それでも4612人もの命が失われた。家族やまわりの悲嘆ははかり知れない。年に約5万人の重傷者にも深刻な障害が残る人は多い。交通戦争は終わってはいない

⑤車そのものの安全性は高まったが、運転するのは人である。「敵を知り己を知らば百戦危うからず」と孫子の言葉にある。原因が何にせよ、車の怖さを知って安全を保つことができなかったものかどうか、悔やまれる

⑥〈四条橋おしろい厚き舞姫の額ささやかに打つあられかな〉。晶子の詠んだ橋のすぐ東が悲劇の現場になった。華やぎを吹き飛ばしてカメラや靴が路上に散乱した。突然絶たれた命の無念を、痛切に思う


【その2】
①今ごろの季節だろう。与謝野晶子に一首がある。〈清水へ祇園をよぎる桜月夜こよひ逢ふ人みなうつくしき〉。京都の繁華街・祇園から清水寺に向かうところか。朧月(おぼろづき)に照らされた、夢幻のような夜桜が目に浮かぶ

②見頃を迎えた桜をもとめて、きのうも祇園はかなりの人出であったと聞く。惨劇が待ち受けていることを誰が予想したろう

③祇園の一角、京都・四条通の交差点で軽ワゴン車が信号を無視して歩行者の列に突っ込み、7人が死亡した。運転していた会社員の男(30)も電柱に衝突して死亡している。意識を失う病気があったとも報じられているが、事故との因果関係はまだ分からない

④誰もが日に何度か、どこかの交差点を渡る。人命を奪う事故に恐怖感の序列があるはずもないが、日常生活のすぐそばに潜む惨事に身の震える思いでテレビ画面に見入った人も多かろう

⑤〈あなたの車を凶器に変えないでください〉。30年ほど前、ある自動車メーカーが安全運転キャンペーンに用いた広告コピーである。事故原因の究明を待つまでもなく、ハンドルを握る人はこの言葉をもう一度、胸に刻み直していい。


いずれも京都・祇園でおきた交通事故について触れた文章であるが、お気づきの方もあろう、【その1】は朝日新聞の「天声人語」、【その2】は読売新聞の「編集手帳」。ともに4月13日の朝刊に載ったものである。

両紙見比べて驚いた。別に相談したわけでもなかろうに、文章が実によく似ている。時間差があったら、どっちかがパクったといわれても仕方がないほどに。


パーツ① 与謝野晶子のおんなじ歌を引用している。「祇園+桜の時期」という連想で「何か有名な歌でも引用すっぺか」と考えたら、まぁ事実上この一作しかないわけだが。

パーツ② ここで痛ましい事故が起きました、という今回のコラムの主題を提示する。

パーツ③ 事故を起こした人間には「意識を失う持病」「意識を失う病気」があったけれど、それが事故と直接関係があったかどうかはどうかはわからない、という流れはクリソツ。

パーツ④ ここもほとんど同じことを言っている。「ほんっと交通事故って怖いよね」といってる。

パーツ⑤ ともに「車って怖いから、アナタも気をつけてね」という読者への呼びかけである。実質的にこれでコラムは終了する。「天声人語」のほうは、つけたしでもうちょっと書いてるけども。


なんでこういうことになってしまうのか。ヤッパリここには商業新聞の限界というものがあって、その立ち位置から「言えること・言うべきこと」というのは自ずからひとつのワクの中に収まってしまうのである。新聞的な「ポリティカル・コレクトネス」っつーか。

「桜の時期の祇園」っつーと与謝野晶子だよネ、「てんかん」持ちの人が事故起こしたら、まぁそこに因果関係があったかどうかはわからんけど「意識を失う持病があった」ぐらいの穏当な表現でその点は指摘しておきたいよネ、みたいな。

まぁ新聞っつーのはそういうものなのかもしれなくて、こういうコラムとかに独創性とかクリエイティビティー求めるのが間違ってるかもしれないんだが、こうやって同じ日の新聞で金太郎飴みたいに似た記事見せられるとサ、なんかね。で、「世の中の常識とは反してるかもしれないけどオレはこう考える」みたいな骨のあるコラムも書いてほしいよなと思ったり。



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ボランティアが必要だと思ったら自分が行けよ。 [天声人語]

阪神淡路大震災から17年。こういう話を毎年取り上げるのは新聞コラムのならいであって、今朝の天声人語もやはり例外ではない。が、一読、何か苦々しい思いが胸の底に澱のように溜まるのを感じた。ちょっと引用してみるか。

3・11に「上書き」されることなく1・17が巡り来た▼17年になる。それは、中継される津波と同じ歯がゆさだった。白む空に立ち上る幾筋もの煙、横倒しの高速道路。テレビで見入った惨状を忘れない。異国で何もできない自分が悔しかった

当時は特派員で外国に行っていたのだな、この人は。つまりこの人は、自分は現場にいけずに歯がゆかったけれど、このとき全国から被災地に数多くのボランティアが駆けつけたことは何とも心強かった、と回想してるのだな。まぁそこまではいいが、最後をこんな風にシメるのである。

阪神がボランティア元年なら、こんどは一つ進んだ新年にしたい。消えた命や景色とともに、みちのくに集った無名の善意と教訓を語り継ごう。季節が移れば、潮をかぶった田畑での援農もあろう。受験や就活が首尾よく終わった皆さん、早春の東北はどうだろう。

ボランティアはやっぱり大事だ、受験が終わった若者よ現場に向かえ、と書いてオシマイである。なんなんだろうね、それは。なんでここで若者への呼びかけなのか。オマエがボランティアで行けばいいのではないか。

「阪神淡路のときは現場にいけず残念だった、でもあれから日本人もボランティアに目覚めて、それはそれでとても良いことだった」という話だったよね、流れ的には。だったら最後は、じゃオレも60歳近くになって(想像w)体にガタがきてるけども、今回は日本にいることだし現場にボランティアで乗り込んで頑張るゾというのがスジではないのか。なんでヒトサマに「おまえらボランティアに行けよ!」とか説教してオワリなのだ?

改めて言うまでもなく、ボランティアというのは自発的に行う行動をさす。いま助けを求めてる人がいると思ったら、まず自分自身が動く。それがボランティアのアルファでありオメガだ。だがこいつは、「これは大事なことだ。だからオマエ動け」とか偉そうに言う。

つまり、オレサマは天下の朝日の巻頭コラムを書く仕事があるので、ボランティアで休職なんかしてるヒマはないし、泥被って肉体労働するような身分でもない。オレサマは号令を発する立場なのでこれでいいのだ、とでもお考えになっているのだろう。

バカバカしい。この筆者が何歳ぐらいかはしらんが、仮に定年前の50代だったとしても現場で十分働けるぞ。被災地では60、70代の爺さんたちだって必死で頑張ってるんだ。偉そうにボランティア論を語るのであれば自分でまず行け。話はそれからだ。


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田中角栄をもちあげる天声人語 [天声人語]

このあいだ天声人語がクリスマスをネタにしていたので、「それはちょっと違うんではないか、朝日新聞にはクリスチャンから抗議が殺到しているのではないか」ということを書いたのだが、そのご、Google先生で「天声人語 クリスマス」と検索してみたところ、アレッ誰も批判なんかしてねーやオレ以外(笑)。

なるほどー、世のクリスチャンの方々は実に人間ができていらっしゃるのだなぁ~と思う。そういえば聖書にもこう書いてあったな。

あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい(マタイによる福音書5章38~39節)

クリスチャンが別に気にしないでいいというのなら、別にオレがいきり立っても仕方ないのだろう。釜ケ崎で頑張ってる本田哲郎神父とか聖書学の田川建三氏みたいな、ナアナアが嫌いなキリスト者も多いんじゃないかなーとか思ったんだが。むなしい一人芝居。ちょっぴり孤独(笑)。ま、いーや、どーせチラ裏ブログなんだし。気にしないで次いってみよー(笑)。



さて、本日の天声人語は、例によって「最近の日本の政治家は小物ばっかりだなー」というオハナシである。つまり、むかしむかし、「コンピューター付きブルドーザー」「今太閤」などと呼ばれた田中角栄という政治家がいたのだが、彼は官僚の思惑などものかは、当時の大平外相と組んで「政治主導」で日中国交回復を成し遂げましたパチパチ、と。ところが最近の政治家は小物ばっかで何にもできねーじゃねーか、情けねえナアと嘆いておられる。最後はこんな風にしめている。

(いまの)日本には田中も大平もいない。二回り小粒で、のべつ交代している首相と外相がいるだけだ。政治を見限った官僚たちの中には、妙に活気づく者もいる▼大衆人気を誇った田中首相も、狂乱物価と金脈批判で退陣に追い込まれた。そしてロッキード事件。それでも2年前の本紙調査では、戦後首相の一番人気である。前に進まない政治は「小粒」だけの責任ではないのだが、強烈なリーダーシップへの郷愁は理屈抜きらしい。

うーん、相変わらずバカだね。

そもそも田中角栄にこういう力業ができたのは何故か。言うまでもない、究極的にはカネの力だろう。公共事業をはじめ利権絡みの話には必ず顔をつっこんでカネを稼ぐ。で、子分たちに配っては忠誠を誓わせる。カネの力が「数の力」に転じ、たとえ金脈問題やロッキード事件で叩かれたって屁のカッパの闇将軍。こういう人間だからこそ、ムリを承知の力業だって可能になるのだ。しかし朝日新聞さんは頑強に、イヤ駄目だ、政界浄化しないといかん、こういう田中金脈政治はいかん、って、もう40年間言い続けてきたんじゃなかったか? 「仮に政治主導で何かやってくれる力はあるとしてもだな、こういうダーティーな男に勝手にやらせておくわけにいかんのだ」と怒っていたんじゃないのか? それがどうだ、いまになって「白猫であれ黒猫であれ、鼠を捕るのが良い猫である」(by鄧小平)ですか? 

ただ、「いやオレ自身は必ずしも角栄全肯定じゃないんだからネ」とさりげなくエクスキューズをしているのだな、この男。この辺が実に小ずるいというかコスイ。つまり「2年前の本紙調査では、戦後首相の一番人気である」「強烈なリーダーシップへの郷愁は理屈抜きらしい」とか書いているのは、つまり「大衆の皆さんが角栄みたいな人物を待ち望んでるんだよね。オレはそこまでは言わんけど、ま、その気持ちわからんでもないねー」みたいにして自分を高みに置いて、逃げ道を作っているのである。

だいたい「ともかくああいう金権政治は良くない、何があっても」というここまでの朝日の主張は、つまり、「カネの力とかに左右されず国民ひとりひとりが自分の頭で考えて政治に参画していく清く正しい民主主義を作っていきましょうよ。そりゃ有能な一部の人間に政治を任せて、それこそ独裁みたいにして勝手気ままにやってもらった方が効率は良いだろうし、思い切った改革とかもできるかもしれない。でもそういうのは裏目に出たら最悪だし、やっぱり俺たちは効率悪いけどああだこうだ言い合いながら政治を進めてく民主主義でいくっきゃないんだよ」という意志表明であったハズなのだ。

そういう「理想」みたいなものを持つこと自体は別に悪いことじゃないのだが、その「理想」がうまくいかないからって、こういう風に変に斜に構えて毒づくのは如何なものか。歯を食いしばって「うまくいかないことがあっても、これは民主主義のコストだよね」って言うべきじゃないのか。何をいまさら偉そうなことをいっているのか。



【追記】
そのご、いろいろとネット上を徘徊していたら、朝日新聞の「お問い合わせフォーム」というのを見つけた。凡例として

件名をご記入ください(例:○月△日の天声人語について、など)

みたいなことが書いてあったから、おっとコイツは面白いぞ、ブログに書いたことコピペして送りつけてみっか、と一瞬思ったのだが、よくよく読むと「弊社からの回答内容を転用、二次利用することは固くお断り致します」って書いてある。なるほどブログとかに転載してツッコミいれたりして遊ぶのはいけないんだ。残念。

我が国の言論を担う自称クオリティ・ペーパー(笑)なんだから、そんなセコイこと言わないで「開かれた言論」を実践して欲しかったンだが、意外に(?)ケツの穴は小さいな。


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天声人語子はクリスマスを何だと考えているのか [天声人語]

本日の天声人語。クリスマスで暴飲暴食する向きもあろうが、世界には日々のメシにも事欠く人たちもいるのだから自戒めされよ、みたいなことをかいている。最後の部分を引用する。

▼どこで聞いたか、「大人とは、垂直方向には発育をやめたが、水平方向にはやめていない人」という寸言があった。腹の周りを気にしつつ、日本も週末のクリスマス。ご馳走(ちそう)にスイーツに食欲全開の大人もおられよう▼やぼは申すまい。体重計を放念し、存分に味わうも良しである。ただ一つだけ、パンにバターをたっぷりつけてあげたい子が、地球に多く暮らすことを忘れないようにして。


馬鹿まるだし、である。

まず第一に、別にクリスチャンでも何でもないわれわれが、クリスマスとやらで浮かれることの愚に全く無自覚であるのがきにくわん。もちろんクリスマスがキリストの誕生日だというのは後付けの牽強付会で、冬至起源の民俗行事が習合したものだという話もあるから、必ずしもクリスマス=クリスチャンの宗教行事とはいえないのかもしらん。

しかしだな、やはりこれはキリスト聖誕祭だから有り難いという話なのである。「人間は生まれながらに原罪を背負って生まれてくるのだが、神の遣わされたイエスさまが身代わりに死んで下さったので救われた、で、そのあとイエスさまはいったん生き返った」みたいな教義は、まぁ仮に事実そのままではなくある種の比喩だと考えるとしても、オレにはどうしてもリアリティを感じることができんし、それは大多数の日本人にとってもそうであるから、日本のキリシタンはどうやっても1%の壁を越えられないのではないか。

つまり、今の日本のクリスマスというのは「なんか南蛮渡来の神様が有り難そうなので俺たちも一緒に騒いでみますか」といった程度のもの。少なくともそのあたりに後ろめたさを感じていて欲しいのだが、この天声人語子の「暴飲暴食する日だよねー」みたいな馬鹿丸出しの発言をきくと、もう、これが日本のクオリティ・ペーパーを自認する新聞の看板コラム(笑)かと哀しくなるぞ。

それから、最後につけたしのように「パンにバターをたっぷりつけてあげたい子が、地球に多く暮らすことを忘れないように」などと恥ずかしげもなく書く傲慢さが許せん。忘れなかったら、なにかが変わるのか? オマエ自身が「あぁ俺様って可哀想な子供たちのことも忘れない良心的コラムニストだよな~」と自己満足する以上の効用はないのではないか。パンにも事欠く子供たちを、こんな馬鹿話のだしに使うな。

そもそも本当のクリスチャンだったら「クリスマスには暴飲暴食して騒ぐばっかりじゃなくて、世の片隅で泣いている人のことも思ってね」などと異教徒から説教されたら、「アホかおまえは。オマエは何にもわかってない」と怒るんじゃないのか? いまごろ朝日新聞には抗議の声が殺到してるんじゃねーのか? そういや、こないだ橋爪大三郎と大澤真幸の出した「ふしぎなキリスト教」なる本が、「もう全然キリスト教がわかってない!」とかいって関係筋から徹底的に叩かれてるそうだしね、天声人語子もあんまり世の中を甘くみないほうが良いのではないか。





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ヒマネタとくれば天声人語(笑) [天声人語]

もう天声人語のアホらしさは論評するに値しないなぁとは思っているのだが、たまさか今日も朝日新聞をめくっていたら、例によって自社宣伝ページで「天声人語書き写しノート」のPRなどしておったものだから、もうこれは半ば世の良識に対する挑戦ではないか、よーしそうくるなら何度でも何度でもオカシナところは指摘してやるゾ、こんなエントリー見に来てくれる方がいるとしてもせいぜい数十人、世の中に何の影響もない弱小ブログではあるが一寸の虫にも五分の魂だかんナ、といってまたぞろ筆誅(笑)を加えるのである。

で、今日の天声人語。日米開戦70年にひきつけて、東郷茂徳を登場させている。この人、日米開戦時の外相で、いったん辞めたあと終戦時にふたたび外相に就任した外務官僚だ。基本的には戦争回避に尽力した人ということになっていて、だから開戦時の外相としてA級戦犯になってしまった可哀想な人、というトーンで書いている。以下引用。

▼獄中でよく歌を詠んだ。他のA級戦犯への目は厳しい。〈此人等(このひとら)国を指導せしかと思ふ時型の小きに驚き果てぬ〉〈此人等信念もなく理想なし唯熱に附するの徒輩なるのみ〉。あれほど権勢を振るっていた軍人らの、一皮むいた「小物ぶり」への憤りである

▼いま東郷の遺著をひもといて、歌に古さを感じないのは、政権交代後の政治のせいだろう。輝いて見えた「大物」たちは早々とメッキがはげた。閣僚級もしかり。国難の年だけに閉塞感は深く、どこか往時に重なっていく


あぁ何ということでしょう、小物のはびこる政治にはホント苦労させられますなぁ、もっとちゃんとした人にやってほしいものですなぁ、とボヤいているわけで、もうなんか典型的床屋政談のレベルで鹿馬鹿しいというしかないんだが、ともかく2点だけ指摘しておく。

その1。

世の中に人物がいなくなった、みたいな議論は俗耳に入りやすいのであるが、これは違うだろう。世の中はますます複雑になってきておる。なにやら蛮勇をふるってエイとやれば一気に解決、みたいな講談の世界みたいなことは今の時代では流行らない。というか、できない。もうこれはあらゆる分野でいえることで、ビッグな人物というのはキホンこれから出てこない。天声人語子もいっているように、いま大物ヅラをして登場してくる人物というのは、全部メッキをほどこした人物と考えてよい(ここだけは褒めてやろう)。政治家に小物しかいないというのなら、それは国民がまるごと小物になってしまったから、かもしれない。

その2。

何やら東郷を褒めているのだが、はて、戦前・戦中の東郷には確か批判的な声もあったはずだが、と思った。オレも耄碌してきて、もはやどこに何が書いてあったかすぐ思い出せない、とりあえずウィキペディアを見てお茶を濁すけれども、そこはご容赦あれ。で、そこに書いてあったことを見て思い出した。そうそう、この男、日本が完全に詰んでしまって、あとはどういうかたちで終戦にもっていくかという局面で、なんと(当時は局外中立の立場にあった)ソ連に終戦工作の仲介役を頼もうと言い出したのだった。もちろん、その後、中立条約を勝手に破って北方領土に侵攻したソ連であるからして、仲介役なんかする気はさらさらない。結果、一日でも早く終戦に持ち込めば犠牲者が少なくて済んだものの、あの冷血ソ連に期待するなどという東郷のトンチンカンなアイデアで無駄な時間が費やされてしまったのである。

まぁ別にその善意を疑うわけではないが、仮にもプロの外交官として日本の国益を守るリーダーの地位にあったわけだから、こういうバカをやられてはたまったものではない。というか、あの局面でそんなお人好しなことを言っていた時点で、この男こそ「単なる小物」ではなかったか、という気もしてくるのである。

もひとつ、これは出典がハッキリしないウィキペディアからの引用だが、こんなことも書いてあった。

(東郷が東京裁判で:引用者注)結果的には自分の立場のみを正当化する主張に終始したと見られたことを、重光葵は「罪せむと罵るものあり逃れむと 焦る人あり愚かなるもの」と歌に詠んで批判している。

真相はよくわからんが、こういうのを読むと、秀才官僚にありがちな言い訳のうまい人物ではなかったか、という気がしないでもない。ちなみに重光は戦中・戦後にやはり外相を務めた外務官僚出身の政治家である。ミズーリ号艦上で降伏文書に署名したことでも有名だな。

ということで今回のまとめ。

小生のみるところ、天声人語子は「世の中には絶対悪と絶対善がある」という、あたかもグノーシス派のそれにも似た世界観をおもちのようであるが、今回はその悪いところがモロに出てしまった。今回のシメには「未来のために過去に学ぶ姿勢が、とりわけ政治家にほしい」とか書いてるが、東郷茂徳善玉説に安直に乗っかって議論を進めてしまっている天声人語子こそ、「未来のために過去に学」んでほしいぞ。





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またまた天声人語(笑) [天声人語]

で、けさの朝日の天声人語である。まずはガンを患っていた桑田佳祐が仙台で復活ライブをしたという話。次いで(またこれか、と思うンだが)なでしこジャパンが五輪出場を決めた話だ。で、こういう展開になる。

歌える人は歌い、走るべき者は走る。こうして、今の日本はどうにか持っている▼つい比べ、泣きたくなるのが政治の惨状である。すぐ辞めた経産相は憎むべき放射能でふざけ、防衛相は「私は素人」と言い放つ。民主党の国対委員長は、臨時国会を早じまいする理由を「内閣の態勢が不十分」と語ったらしい


おいおい、俺だって桑田の才能は認めてるし、まぁなでしこジャパンの女の子たちだって実際頑張ったんだろう。だが「歌手やスポーツ選手が頑張ってるから日本はなんとかもっている」はないだろ。彼らのやってることってぇのは、なんか自分でも止むにやまれずやってることであって、それがたまさか人を勇気づけたりすることもあるかもしれないな、ぐらいの話じゃないのか。

別に彼らが「日本をもたせてる」わけじゃあない。ホントに「もたせてる」のは彼らみたいに脚光を浴びることもなく(ま、なでしこはちょっと前までそうだったけどネ)、苦しいところで自分を励ましながらどうにかこうにか社会を支えてる人たちじゃねえのか。こういうところに、はからずも朝日記者の貴族主義が顔をのぞかせるのである。

で、これに引き比べて政治は全然ダメ、「放射能でふざけ」る経産相はなってない、のだそうだ。だが福島第1原発の周辺が「死の街」であるのは冷厳な事実だし、偏屈ルキウス氏もいっていたけれども顔見知りの記者相手に「あんたらも放射能まみれのこの世界を生きてかなきゃいかんのだから一蓮托生なんだよ」的なやるせなさを込めて放射能をすりつけるようなそぶりをしてみせたのだとすれば、それはそんなに致命的なことなのか。しかも彼がその際に正確にはどんな言葉を発したのかいまだに定かではない、というのは、これがその場の流れからすれば記者たちが悪意とかを感じることもない、どうでもいい出来事だったからではないのか。

政治家をバカにしていれば事もナシ。「言葉狩り」で大臣のクビでもとれば殊勲功。そんなホンネがすけてみえる。愚劣な言葉。


追記

ちなみにけさの読売新聞編集手帳はこんな風に書いている。

失言の責任を取って鉢呂吉雄経済産業相があっさり辞表を出し、野田首相もあっさり受理した。あっさりしすぎて、かえって気にかかる◆「死の街」の稚拙な表現力も、「ほら、放射能」の悪ふざけにしても、かばうつもりはさらさらないが、読者のお叱りを覚悟の上で正直な感想を述べれば、「謝罪」以上、「辞任」未満あたりが妥当な“量刑”に思えてならない


ま、執筆者の方もけっきょくはサラリーマンなのであんまりハッキリ書けなかったのだろうが、言葉というものへの真摯さは朝日天声人語子よりは格段上らしく、「それほど問題じゃないだろ」的なことを暗に主張していらっしゃる。



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今朝の天声人語も酷かった [天声人語]

さて、けさの朝日新聞。天声人語子が、近日公開の映画「ライフ」を観てきたと書いている。どんな映画かというと

「命をつなぐ」をテーマに、動物たちの生への執念を英BBCが6年かけて収めた。とりわけ打たれたのは子への愛だ

というハナシ。で、締めくくりはこんな感じである。

わが同類には知恵と情熱に欠ける親もいて、虐待事件が後を絶たない▼〈リボンつけしままに眠れる幼子を目守りつつをり泪ぐむまで〉大野誠夫。目元にあふれたのは、この子を命がけで守るという気負いだろう。どんな親にも本来、悲しいくらい純な愛が宿る。カエルやタコに教わることではない。

動物はちゃんと子育てしてて偉いんだが人間はどうよ、というのが結論であるらしい。最後に「カエルやタコに教わることではない」とか言ってるけれど、全体の文章の流れからすると、この個所は「カエルやタコに教わっちまったよなー。ホントはそんなことじゃいけないんけど」というレトリックであって、つまりこの方はカエルやタコを見習おうと言っているのである。

だが、ちょっと待ってくれ。動物の中にも「子殺し」はあるというぞ。たとえばゴリラ。ハーレムのボスを駆逐したボスは、群れの中のメスと前のボスとの間にできた子供を殺してまわる、みたいな話もあるらしい。まぁ人間界になぞらえていえば、離婚したコブつきの女が新しい男とつきあい始めたはいいが、新しい男は前夫の子供を事あるごとに虐待して最後には殺してしまいました、母親も別段それを止めずに傍観しておりました、みたいな話であって、なんかニュースでよく見聞きするパターンのような気もする。

ここで「なるほど人間もゴリラもダメだなー、動物って進化するにつれて堕落するのネ」みたいな反応をされるのも困るので言っておくのだが、ウィキぺディア「母性本能」によれば、一般的にいって動物の母親は「常に自分の子に尽くすわけではない」。天声人語子は、うるわしき「愛」ゆえに動物はわが子を守る、みたいなことを言いたいらしいが、冷静にみると、動物の行動を律するのは「じぶんの遺伝子を後世に残すこと」。例の「セルフィッシュ・ジーン」の考え方だ。だから、「いま・ここで」自分の子を見捨てることが長期的には「自分の遺伝子を残す」ために有効となれば、情け容赦なくわが子を見捨てたりもする、そういう話だろう。

まぁなんだ、「動物は純真な愛に従って行動するのでよろしいが、人間はゴーマンになってしまったので愛を忘れてしまった。反省しましょう」みたいな彼の説教は何となくもっともらしく聞こえるんだが、それは端的にいってウソなのだ。そういう言い方がお気に召さなければ、「あらまほしき幻想」といってもいいけど。

つまりだな、人間の倫理の根拠というものは別に動物界から引き出してくる必要はないのであって、「ダメなものはダメ」というロジックは自分たちで構築すりゃいいのである。その倫理というものは、別に本能に基礎づけられていなくたってアリなんであって、自前で四苦八苦して作り出していけばいいのである。苦しいけど。

今日の天声人語のヘンなところは、どっかに無謬の素晴らしき世界があって「そこに向けてわれわれも努力せねばナラン」といった、なんか無邪気というか、浮世離れした啓蒙主義みたいなものに完全に毒されているところなのだ。だからその議論が現実からすっかり遊離してしまったのである。

むろん、その背後に「啓蒙の先頭に立つのはオレサマ」的な、天声人語子のうぬぼれた自画像があるのは言うまでもない。

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