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勝新は実は凄かったのかもしれん [身辺雑記]

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1960年代初めに生まれたオレなんかの世代にしてみると、勝新太郎というのは「どこがいいのか今ひとつわからんよなー」という役者であった。まぁそのへんはオレらの世代にとっての最大公約数的理解といってもいいような気がする。

もちろん座頭市俳優としての名声とか例のコカイン事件とか、あるいはごく一部にカルト的ファンがいるという例の「警視K」とかの記憶は朧気ながらあるので、なんかちょっと社会常識を欠いた役者バカ系?みたいな印象はあって、まぁ評価するヒトもいるけれども少なくともオレ的にはちょっと苦手、カンベンして、みたいな感じのヒトだった。そもそもその見た目からして、ま、見ようによっては非常に濃いめの魅力的容貌をしているといえないことはないが、客観的にみればちょい小太りの、ちょいとクセのあるオッサンで、全然美男子でもないわけだし。

で、このまえ田崎健太『勝新太郎伝』という本を読んで、あぁいう破天荒な外見のヒトではあったけれども、それなりにイロイロ考えて時代を疾走した天才肌のヒトだったのかもしれんなー、という感慨を抱いた記憶はあるんだが、それにしても好きな役者であるとか、そういう感情移入をすべき対象としては考えられン役者であったわけだ。

が、いまBSで映画「兵隊やくざ」シリーズの放映をしてて、これをみていると、なんと、勝新、けっこー格好いいじゃねーか!

むろんそこには彼をひきたてる相方としての田村高廣の魅力的なたたずまいなどもあるわけだが、ある意味、日本社会の理不尽さの極北ともいうべき帝国陸軍にあって、実にしぶとく体制に抗して生き抜いていった無頼漢の生き様というのを、このバイオレンス映画シリーズのなかで勝新は実に見事に演じきっているッ!

ああいうクセのある俳優を生かし切る。そういう世界がかつては日本にもあったわけだ。フツーの感覚からいえば、必ずしもカッコイーわけではないオヤジを実に魅力的にみせる世界があり、一方ではそういう機会を得て輝きをはなつ役者もいた、という話だな。

もちろん長唄三味線の師匠の息子という、ある意味芸能界的にオイシイポジションから出てきたから上手くいったというような面はあるんだろうが、何か小栗旬とか向井理みたいな、一見さやわかな青年みたいなのばっかり幅をきかせてる昨今の芸能界であればああいう人材はなかなか日の目をみなかったのではあるまいか。となると、じつは今の芸能界などというのは非常に痩せ衰えた世界ではないのかな。そんなことを思わせる「兵隊やくざ」シリーズであり、勝新なのであった。

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夕やけ番長と空手と柔術と [身辺雑記]

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年をとるにつれてどうでもいいことが気になってくるわけだが、今回は空手と柔術(柔道でもいいが)のイメージ、ということを考えたい。

もう大昔の話になってしまうが、荘司としお作・原作梶原一騎の「夕やけ番長」というマンガがあった。まぁ梶原一騎原作という時点であらかたストーリーが見えてきてしまうのだが、つまり腕っ節はめっぽう強いが、そのじつ内心はちょっとセンチメンタルな少年が、学園にはびこるワルたちと対決しては相手を感化していく、とゆー、正に梶原ワールドの正道をゆく作品である。

このマンガ、オレの小さいとき家にあったのでけっこう喜んで読んでいた経緯があり、オレの内的倫理観をかたちづくった有力なパーツとなっているわけなのだが、そんなことはともかく主人公の赤城忠治は爺さんと二人暮らしをしていて、今は整骨をしている爺さん直伝の柔術の天才という設定である。で、そのライバルの一番手として出てくるのが空手遣いなんである。

つまり、そこから透けてみえてくるのは、「柔術=王道」「空手=裏街道」的なステレオタイプであって、なるほどオレの少年時代には確かにそういう空気があったような気がするのだった。とゆーか、今だって、柔道・柔術とゆーと「まっとうな格闘技」であり、空手とゆーとどっか陰を感じさせる格闘技、というイメージがあるんではないか。

で、何を言いたいかというと、結局このあたりで差がついちまったのは「講道館柔道」の存在が大きいンだろうなあという話である。

いぜん読んで感銘を受けた『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』なんかにも書いてあったことだが、実は総合格闘技的要素を濃厚にもっていたかつての「柔術」であるが、その後、立ち技中心のお行儀の良い講道館柔道の支配が広く行き渡るにつれ、そうしたカゲキな一面は忘れられていってしまったのである。

逆にいうと、嘉納治五郎センセイの政治的力量などもコレあり、講道館柔道は体制のお墨付きを得て「清く正しい格闘技」としての認知を得たということなのだろう。だからこそ、子ども相手のマンガの世界であっても、柔道=正統みたいな刷り込みが当たり前に行われていったのではないか。

いや、梶原ワールドをいまさら否定しようとも思わンが、それこそ『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』を読んだ今となっては、ガキの頃のオレは何か大切なものを見過ごしてきたのかもしれんなー、などと今さらながら思ったりもするのだった。どうでもいいが。


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アンリの扉 [身辺雑記]

詩心など皆無なのだが
山之口貘と高橋新吉は好きで
あと、イレギュラーに会田綱雄の「アンリの扉」を口ずさんでいた頃もあったなぁ

さわりだけでもちょっと紹介。




「アンリの扉」会田綱雄

摩天楼のてつぺんの
その扉のまえで
さんざんためらつたあげく のはてに
ノックもせず
アンリはいつもひきかえす
エレヴェイタアがきらいで
かれはそこまであるいてのぼるから
もういまにもたおれそう
それでも歯をくいしばり
アンリはいつもひきかえす
靴音をたてないように
あらい息づかいをおさえながら
それこそやつとの思い
アンリは摩天楼の玄関におりたつ
そして
こんどこそほんとうにたおれてしまう
ゆうぐれ
しめつた風がふきこんでこないとすれば
そのまま参つてしまわないともかぎらぬ
さいわいアンリが気がつくころには
摩天楼の玄関をまさにとざそうとする
重つくるしい鎧戸のきしめき
あわてて飛びだしてから
アンリは街路でふりかえり
もういつぺん摩天楼をみあげる
夜になりはじめる空に
それはのびあがりせりあがる
そして
かの扉のあるてつぺんのあたりすれすれに
はやくもまたたきひかるものの
なんといううつくしさ
アンリはわれをわすれてみほれる
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夏の甲子園長野県大会 [身辺雑記]

毎年この時期になると、夏の高校野球というやつが始まる。

当ブログでも再三書いているが、野球留学みたいな作戦を弄してなりふりかまわずに勝ちに行く各地の私立高校のふるまいには苦々しさを感じているところであり、オレとしてはけっして朝日新聞がはやしたてるような「清く正しい青春」の世界がグラウンド上で繰り広げられているとは思っていない。

ではあるンだが、わが郷里の長野県大会の動向についつい目がいってしまうのは、哀しい性。で、きのうの話、甲子園でもおなじみの(もっとも出場回数ばかり多いがすぐに負けて帰ってくることでも有名w)古豪・松商学園が、公立の進学校・諏訪清陵に負けているではないか! 

松商といえば、日本プロ野球初の三冠王、中島治康の母校でもある。そういう体面もあるんだろう、やっぱり毎年数人は大阪あたりから野球留学の助っ人を連れてくる学校、という印象がある。それゆえに県内の公立高校など、もう逆立ちしても歯が立たないというのが常識であった。そういう強敵を公立校が倒した。

こないだ、通信制を逆手にとって野球ばっかりやってる生徒を擁した「地球環境」とかいう学校が長野代表で甲子園に出てきて、オレとしては「かつての教育県もここまで堕ちたか」とガックリしたものであるが、そうなのだ、やればやれるじゃないか公立だって。

まぁこういう学校は、トーナメントの長丁場を乗りきるためにいろいろと下準備をしている私立強豪とかと違って、それこそ一戦一戦、必死で勝ち上がっていくしかないので、おそらく最後まで勝ち残るというのは難しいのだとは思うが、それはそれ。こういうジャイアント・キリングこそ高校野球の醍醐味だワイと(試合を見たわけではないがw)オレは内心快哉を叫んだのであった。


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立ちションは何故減ったか [身辺雑記]

というわけで、きょう仕事を終えて駅から歩いて帰ってくる途中、立ちションベンをしている男を目撃したのだった。

う、そういやぁ立ちションしてるのを見るの久々だわい、と思う。

そうなのだ、最近立ちションをする男というのはほとんど絶滅危惧種なのである、少なくともオレの身の回りでは。こいつは意外な発見であって、そういえばこのまえテレビで見た映画「転校生」は1980年代の邦画の傑作としてオレの心に深く刻まれている名画なのであるが、その最後のほうで尾美としのりが気持ちよさそうに立ちションをするシーンがあった。あの映画を知ってる人であれば頷いていただけると思うけれども、あれは確かにストーリー上、必要なシーンではあった。が、同時にあれは当時のジョーシキからすれば別段違和感のあるシーンではなかった。

つまり何を言いたいかというとだな、何やかやいって、ああいう品のないふるまいをする人間というのは、この日本ではどんどん減っているのではないか、ということなのだ。

たとえば、ワケもなく駅員に暴力をふるう人間とかがしばしば報道されて「最近のニッポンは怖い」みたいな印象操作がなされたりもする昨今なのであるが、いやよく考えてみると「イキナリ暴力をふるう粗暴なヒト」というのは本当は昔のほうが多かったのではないか。殺人事件とか昭和30年代なんかと比べると激減したっていうのは有名な話でもあるし。

これは、例の映画「三丁目の夕日」をみては「むかしは良かったよねー」と遠い目をする連中への違和感とも重なってくるわけだが、やっぱり何やかやいって、日本人は豊かになったのであり、そしてそのプロセスのなかで「衣食足りて礼節を知る」ようになったのである。それはそれでちゃんと評価しないといけないことではないのか。

これとちょっと関連した話をもうひとつ。昼間、銀座の界隈を歩いていると、よく中国人観光客がデカイ声で話をしながらぶらついておる。若干失礼なことを言わせていただくと、オレのイメージの中では、中国人というのは街を歩いていても、のべつまくなしに「ガラガラペッ」とタンを吐き散らす人たちだ、というイメージがある(あと行列は絶対守らない、とかね)。

しかるに、最近銀座で見かける中国人観光客は、まぁ行列を守るかどうかは知らんが、どうやら街路にタンをペッと吐き出したりしてはいないのである。もちろん日本に観光にくるような連中はかなり裕福な層だということもあるンだろうが、まぁタンは吐きそうもない。たぶん。

何やかやいって、小ガネを貯めた中国の皆さんも「やっぱタン吐いちゃいけないよねー」と思うようになったに違いない。やっぱ「衣食足りて礼節を知る」なんである。

というわけで、話をもとに戻しますけれども、ナニカっつーと「昔は良かったー」という人たちがいるけれど、決してそういうのは真に受けてはいけないのである。ノスタルジーはノスタルジーでいいけれども、まぁ今の自分たちにもっと自信もったほうがいいんじゃねーの、とオレは常に思っているのである。立ちションが減った日本。どうだ、素晴らしいではないか。

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【追記その1】 ↑まぁ、たしかにこういう風景と立ちションベンはすごくマッチするような気はしますナ

【追記その2】 もっとも、路上喫煙とか立ちションとかを、居丈高になって「絶滅せよ!」とか叫ぶような連中もまた願い下げではある。ああいうのは自分が「やめた!」と決めてやめるものであって、強制してやめさせるというのはやはり宜しくない。


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AliExpressで買うのはやめたほうがよい [身辺雑記]

DVDドライブ、SW-9576-CをAliExpressの店で買ったら不良品が来たので「返金してくれ」とAliExpressに苦情を申し入れた件であるが、連絡が来た。

いちおう当方がアップしたYouTubeのビデオを見たということらしいのだが、2つ選択肢がある、とか何とかメールでいってきた(以下。意訳アリ)。


1,いちおう調停案なんだが「80%返金」で手をうたんかね?

2,あくまでも100%返金を求めるんなら、アンタの支払いで買った品を返送してね。ただ老婆心ながら言っとくけど、前もって返送にどれぐらいカネかかるか調べたほうがいいよ。結構高いから(笑)


というわけで、AliExpress本部というのは、100%不良品を送りつけてきたお店の側に立って商売をしているのがよ~くわかった。何で「80%返金」なのだ? 全然公平な立場じゃないだろうが。で、被害をうけた消費者側としては「イヤ100%返金を求める!」と言いたいところなんだが、「提案2」のほうで、「いやー、それやると結構アシでちゃうんじゃね? 80%バックで手を打っといたほうが賢いよ」と店側にたって説得を試みているのである。

しかも「提案2」に従って返送したところで、ちゃんと返金してくれるかどうか、全く保証はないのである。「え、こっちで動作検証したら動いたよ? アンタんとこの環境に問題あるんじゃネ?」とか言ってまたまた欠陥品送りつけてきてオワリ、という結末も十分考えられる。

なんかもう溜息。すっかりイヤになった。弱気になって「じゃ80%バックでいいから」って連絡しちまったぞ、オレ。つまり約1600円のお布施を強要されたわけだな。というか授業料。泣き寝入りorz

まぁ、モノによっちゃAliExpressでイイ買い物した、っていう人もいるかもしれないが、ヘンテコな品が来てもジョークで済ませられる人以外にはお薦めできないな。電子機器なんてのはもってのほかだ。カネをドブに捨てるに等しい。俺の経験からすると今回の教訓は以下のとおり。


その1・AliExpressに出店している店は安易に信用してはならない。なかんずくオレが取引した「Eeshops Technology (H.K.) Ltd.」というところは問題外(だいたい「発送の目安教えてくれ」とかメール出しても、この店からは一切リアクションがなかった)

その2・AliExpressの本部は完全に中華店舗の味方なので、万一のときは審判全員を味方につけた巨人軍と戦うぐらいの覚悟が必要である




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S601修理問題から派生したAliExpress問題 [身辺雑記]

というわけでチラ裏。中国版楽天といえばいいのだろうか、AliExpressで注文したDVDドライブSW-9576-Cが全然ディスクのマウントをしてくれない件で、サイト通じて「返金してね」みたいなボタンを押して様子をみてたンだが、本日AliExpressからメールがきて、「なんかほざいとるようやがテメー全然証拠出しとらんやないか、文句あるなら3日以内にビデオでも何でもえーから証拠だせやワレ」(意訳w)といった意味のことが書いてあった。

なるほど、日本の通販だったら「そーですか、じゃとりあえず返送していただいて・・・」みたいなノリであるが、これがグローバルスタンダードというのだろうか、「眠たいことほざいとらんで証拠出せやワレ!」といきなり来ますか(笑)。ま、オレもサイトの注意書きちゃんと読んでなかったけどね。

しょうがないので、子供の運動会用ビデオレコーダーを引っ張り出して、動かぬ証拠(笑)を撮影。

①ドライブがIDE接続なんで、こないだ買ったIDE-USB変換アダプダーみたいなのをドライブにつけてPCに接続→DVD入れてもマウントせず。

②今度は手元にあった古いドライブ、SW-9574っつーのをPCにつなげてディスク挿入→はい、ちゃんと映りますね

というシナリオ通りに撮影。「YOUTUBEにアップすればオレが見て言い分を判定してやる」(意訳w)と書いてあったので、これまで自分で撮ったものなんてアップしたことはなかったが、指示にしたがうことにする。とはいえ、何かアップロードにえらい時間かかってるんで本日中にはムリだな。

でもなぁ、ヤッパ中国人のコンビニのアルバイトとかみててもさー、なんかコッチが汚いみたいにしてお釣り投げてよこすでしょ? 建前にしろ「お客さまは神様です」とかいってるわが国とは違って、向うの商売ってどっか信用ならねー、って感じがするんだよな。

などといってるから日本人は内向きでダメなんだ、それこそこっちから打ってでなきゃ、という声もあるんだが、なんかオジサンもう疲れちゃったから。

ま、それはともかくAliExpressはどう出てくんのか? 「アンタが壊しちまった可能性も排除できないから返金しません」で終わるような気もするぞ。その場合は、今回の出費は「やっぱ中国人は信用できねーよなー、AliExpressなんて一生相手にしネー」ということを学習するためのイタイ授業料、ということになるわけだが。さて。
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地下鉄の優良運転士を励ましたい [身辺雑記]

「ゆっくり出社」が常態の不良サラリーマンとはいえ、たまには猛ラッシュの通勤電車に乗らざるを得ないこともある。

とりわけオレの場合は全国的にも殺人的乗車率でならす東京メトロ東西線を使っているから、そういう日はけっこう気合いを入れていかんとならんのである。たまさか奇麗なネーちゃんとかが近くにいて、まぁ体の前面を押しつけるとかいうことだと犯罪に問われる恐れナシとしないが、殺人的ラッシュであるからして尻と尻を激しく押しつけあうような状況もないではなく(念のためであるが意図せずして、である。ここんとこ誤解無きようにw)、そういう場合は不可抗力ということもあり拷問にも等しい状況にあって「地獄に仏」というか「干天に慈雨」というか、期せずして一服の清涼剤的ひとときを過ごすこともあるわけだが、今回いいたいのは全然そういうことではない(笑)。

そういう満員電車だと運転士の技量が如実にわかる。満員電車が数珠繋ぎ常態となると、減速・加速に微妙な手加減が必要となる。そういうときにカックンブレーキとかかます運転士がいるわけだが、もうつかまるところもなく立っている俺らとしてはなすすべがない。グラッと揺れて隣りの人に体重預けてゴメンナサイ、オレは別にアンタを押したくないんだがこういう運転されては何ともはや、という状態になってしまうのである。

これがうまい運転士になると、微妙に減速したのち、さしたるショックもないままに加速に転じたり、といった具合で、乗客をあんまりグラグラ揺らさない。「あぁ今日の運転士はうまいなー」と心やすらぐのである。

となると、オレ的にはこういう上手い運転士を顕彰したくなる。アンタのおかげで満員電車の苦痛が少し和らぎました有り難うといいたくなる。言いたいんだが、しかし「何時何分発の特急××8号」みたいにその電車を特定することは不可能なのである。数分置きに電車は来るわけだし、しかもそれはダイヤ通りに来るわけではなくてメチャクチャに来るわけだから。

偉い運転士に有り難うを伝えたい。で、あわよくばそういう運転士さんの給料をもっと上げてやってほしかったりする(いや、意外にその辺の技量はちゃんと東京メトロで査定していて、うまい運転士は高給だったりするんだろうか? それならそれでいいんだけど)。オレに何かできることはないんだろうか?





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そろそろ臨死体験について真面目に考えてみる(笑) [身辺雑記]

さて、わが人生もいよいよ午後3時状態となってきたのでそろそろ「死」について考えないといけない。「死後の生存はあるか」という永遠の謎はやはり謎のままであるわけだが、例のNDE=臨死体験というのはその辺で何かヒントにならんのだろうか。

「あれはいよいよ死ぬときに安らかに最期を迎えられるよう脳内に麻薬物質が放出されてこの世ならぬ喜びに満たされたりするのだよ」という説もあるわけだが、ふと考える。生物としての人間というものを考えると、およそだいたいの生理的現象というのは「それが(自己の、あるいは子孫の)生存に有利だから」という理屈で説明可能である。ま、こういうのは後づけの理屈なので検証不能といわれるかもしらんが、経験則的にはなんとなく納得させられてしまうロジックである。

もちろん人間というのは文明という名の「人工的環境」を作る生物であるから、たとえば大昔の人間なら「余った栄養を脂肪にたくわえて有事に備える」という生存に有利な体質がいまだとかえって不利になってしまう、みたいな逆説もあるわけだが。

あるいは「社会」の存在を前提にすると、個々の人間のレベルではトクにはならなくても「社会全体」でみるとトクになる場合があって、そういう行動が人間には備わっていく、という事態も想定される。進化心理学みたいな考え方ですな。

で、臨死体験が仮に脳内麻薬の産物なのだとすると、さて、これは何かの「役に立つ」んだろうか? 仮に臨死体験というのがしょっちゅう起こるもので、生還した人が「いやー、死ぬってそんな怖いものじゃないよ、素晴らしかったよー」とか触れ回ってるんであれば、「あ、そうなんだ。じゃ、この社会を守るためにオレが犠牲になるのも悪くはないよねー」みたいな命知らずの連中が次々と現れて社会を防衛してくれるかもしれない。社会全体の存続を考えれば悪くない話だ。

でも、臨死体験ってそんなに頻繁に起きてるものかしら? ほとんどの人はそんな話は知らんまま一生過ごすのではないか(まぁ三途の川を渡って、ぐらいのイメージは漠然とあるかもしれないが)。するってーと、わざわざ脳内に麻薬物質が放出される理由がワカラン。そんなことしてもほとんどの人間はそれを伝えることなく死んでいくんだから。無駄なような気がする。

それとも「自己が消滅する」という絶体絶命の危機になると、もうここまでくると別に個体や子孫の生存なんか全然関係ないんだけど、もう自らへの最後のごほうびだ、脳内麻薬を出血大サービスだぁーという仕組みで脳が頑張っちゃうのであろうか。麻薬物質を蓄えておいてもどうせ使えないし大盤振る舞いだ、みたいな。

うーん、まぁ「死後の生存」なんてなくても死ぬときにはけっこう安楽に逝けるというのであれば、ま、以て瞑すべしだよネと思えなくもないが、実際はどうなのか。

とまぁ唐突にこんなことを書いたのも、アブダクションと臨死体験の類似性を指摘したと聞いてついつい買ったものの、何の因果か積ん読状態のまま本棚の片隅にずっと眠っていたケネス・リング『オメガ・プロジェクト』の背表紙をチラリと見かけたせいかもしれない。今度ちゃんと読んでみるか。




オメガ・プロジェクト―UFO遭遇と臨死体験の心理学

オメガ・プロジェクト―UFO遭遇と臨死体験の心理学

  • 作者: ケネス リング
  • 出版社/メーカー: 春秋社
  • 発売日: 1997/09
  • メディア: 単行本



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居場所はあるか [身辺雑記]

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冷たい雨の降る日。都会の地下街をフラフラ歩いていると、柱の陰のあたりにしゃがみこんでいる浮浪者がいることにふと気づく。目が合ったわけではないが、何か一瞬、その男の寂しさとか心細さが伝わってきたような気がした。

そうか、彼には居場所がないんだ、と思う。いかに東京とはいえ、こんな日、ふきっさらしの場所にうずくまっているのは辛いだろうな。でも行く場所もない。

ふとオレ自身のことを考える。ここンとこ会社でも窓際的なポジションに追いやられていて、なんかちょっと居心地が悪い。ここはオレの居るべき場所なのかなぁと思ったりする。オレもまた「居場所」を失いつつあるのかもしれないな。もちろんそれは社会的な意味の「居場所」であって、帰るべき家とか家族とかはある。この浮浪者のように物理的な居場所まで奪われているのとは全然違うのだけれど。

しかしオレみたいに、そうやって物理的な居場所を確保したとしても、どこか不全感に襲われちまったりするっていうんだから人間ってのは厄介なものだ。「オレは社会から必要とされている」とか何とか、そんな手ごたえがないと不安になっちまうんだから。とりわけサラリーマンとかだったら、別にアンタがいなくなっても会社はあしたも平気で回っていくってことは誰だってわかってるはずなのにね。

悲しいけれどそれが人間というものか。だから「コンチクショウ」とか胸のうちでつぶやきながら、歯を食いしばって生きていく。


居場所の社会学―生きづらさを超えて [単行本(ソフトカバー)]
阿部 真大 (著)
居場所の社会学―生きづらさを超えて

居場所の社会学―生きづらさを超えて

  • 作者: 阿部 真大
  • 出版社/メーカー: 日本経済新聞出版社
  • 発売日: 2011/08/24
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)



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