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夕やけ番長と空手と柔術と [身辺雑記]

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年をとるにつれてどうでもいいことが気になってくるわけだが、今回は空手と柔術(柔道でもいいが)のイメージ、ということを考えたい。

もう大昔の話になってしまうが、荘司としお作・原作梶原一騎の「夕やけ番長」というマンガがあった。まぁ梶原一騎原作という時点であらかたストーリーが見えてきてしまうのだが、つまり腕っ節はめっぽう強いが、そのじつ内心はちょっとセンチメンタルな少年が、学園にはびこるワルたちと対決しては相手を感化していく、とゆー、正に梶原ワールドの正道をゆく作品である。

このマンガ、オレの小さいとき家にあったのでけっこう喜んで読んでいた経緯があり、オレの内的倫理観をかたちづくった有力なパーツとなっているわけなのだが、そんなことはともかく主人公の赤城忠治は爺さんと二人暮らしをしていて、今は整骨をしている爺さん直伝の柔術の天才という設定である。で、そのライバルの一番手として出てくるのが空手遣いなんである。

つまり、そこから透けてみえてくるのは、「柔術=王道」「空手=裏街道」的なステレオタイプであって、なるほどオレの少年時代には確かにそういう空気があったような気がするのだった。とゆーか、今だって、柔道・柔術とゆーと「まっとうな格闘技」であり、空手とゆーとどっか陰を感じさせる格闘技、というイメージがあるんではないか。

で、何を言いたいかというと、結局このあたりで差がついちまったのは「講道館柔道」の存在が大きいンだろうなあという話である。

いぜん読んで感銘を受けた『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』なんかにも書いてあったことだが、実は総合格闘技的要素を濃厚にもっていたかつての「柔術」であるが、その後、立ち技中心のお行儀の良い講道館柔道の支配が広く行き渡るにつれ、そうしたカゲキな一面は忘れられていってしまったのである。

逆にいうと、嘉納治五郎センセイの政治的力量などもコレあり、講道館柔道は体制のお墨付きを得て「清く正しい格闘技」としての認知を得たということなのだろう。だからこそ、子ども相手のマンガの世界であっても、柔道=正統みたいな刷り込みが当たり前に行われていったのではないか。

いや、梶原ワールドをいまさら否定しようとも思わンが、それこそ『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』を読んだ今となっては、ガキの頃のオレは何か大切なものを見過ごしてきたのかもしれんなー、などと今さらながら思ったりもするのだった。どうでもいいが。


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